001

 彼の始まりは否定の言葉から始まった。
「否定する。 私はあんたを否定するわ」
 それが一度は死んだ彼を生き返らせてくれた、主の言葉だった。
 普通ならば、主にこのような言葉を言われれば、消沈するか憤るか或いは恐れるかのいずれかだろう。
 だが、右衛門左衛門は主のそんな言葉に笑みすら浮かべて、受け止める。
「申し訳ありません、姫様。 またしてもあの奇策士にしてやられました」
「はん、だから否定すると言っているわ。 してやられたのは私であって、奇策士の敵は私であって、お前は敵とすら見做されてはいないわ。 思い上がるのも大概にしなさい」
 この尾張幕府において唯一、右衛門左衛門の主、尾張幕府家鳴将軍直轄預奉監察所総監督、否定姫の敵となる存在、尾張幕府家鳴将軍直轄預奉戦所総監督、奇策士とがめ。
 彼女によって、主が立場を失ったのはこれで何度目になるのか。そのたびに、右衛門左衛門も副監督として、何よりも否定姫の懐刀として、逆に奇策士を仕留めようとしたが、尽くが返り討ちにあい、主人と共に失脚の憂いを見ている。
 もっとも――。
「私もそのたびに舞い戻ってるわけだけどね」
 そう、何度蹴落されようとも、どれだけどん底に落ちようとも、必ず否定姫は今まで通り、まるで予め歴史で定められているかのごとく、這い上がる。失敗したから潔く負けを認めて去る、などという生き方を彼女は否定しつくす。
「まあ、そのたびにあんたの助力もあるんだから、あんたの力があってこそということにならなくもないのかしらね。 その点に付いては誇らせてやらなくもないわ」
「は、光栄です」
「あー、本当に鬱陶しい。 陰気臭い。 ジメジメと黴でも生えてるんじゃないの」
 褒めといて、あんまりな言い草である。
「それで? あの不愉快な女は今どうしているのかしら?」
「それが、どうやら幕府に四季崎記紀の完成形変体刀の蒐集を提案したようです」
「へぇ」
 その報告に否定姫は、ニンマリと実に楽しそうな笑みを浮かべる。
「それはまた、へえ、ふぅん、なるほどねぇ。 これはまた随分と面白くなくもないわね」
 失脚したばかりでありながら、消沈するでもなく、よりにもよって蹴落とした張本人の話を聞いて楽しそうにしている。
 主のそんな姿に、右衛門左衛門も喜ばしい気持ちになる。この情報を持ってきたのは、奇策士の情報を絶えず蒐集していたのは間違いではなかったと。
「それで、あの不愉快の女は変体刀を集められたのかしら?」
「それがどうやら真庭忍軍を使い、絶刀『鉋』を蒐集したようです」
「へぇ」
「そして、真庭忍軍に裏切られて絶刀『鉋』を持って行かれたようです」
「あら」
「次に、あの錆白兵を使って薄刀『針』を蒐集しました」
「へへぇ」
「そして、薄刀『針』を持ち逃げされたようです」
「あらら」
「以上を持って、二本を蒐集して、二本とも奪取されました」
「アハハハ」
 表情だけでなく、今度は声を上げて大笑い。
 腹まで抱えて身を捩っての大笑い。
 目元には涙さえ浮かんでいた。
「本当に、あの不愉快な女は面白いわね。 この私をここまで笑わせてくれるなんて」
「しかし、最終的に奪取されたとは言え、あの完成形変体刀とを一度は二本とも蒐集したのは流石と言えるでしょう」
「まあねえ、何せ旧将軍が国の威信を駆けて、国の力を傾けてまで集めようとして集められなかった一本も集められなかった、そういう事になっている代物ですもんねぇ。 まあ、大したものといえば大したものね」
「そして、今度はどうやら先の大乱の英雄、虚刀流の者に協力を求めに行ったようです」
「へえ、虚刀流ねえ。 確か刀を使わない剣士だっけ? ふぅん、あの女らしい大胆な手ねえ」
 このときは、まだ虚刀流が一体なんなのかというのを、その正体を否定姫もまだ知らない。
 知っていれば、恐らくその皮肉めいた縁に、より自分と宿敵との奇縁に笑い転げていただろう。
「しかし、完成形変体刀を表に引っ張り出すというのなら、私もあんまりのんびりとはしていられないわねぇ。 さっさと復権して、一族の悲願とやらを見届けてやらなくてはならないのかしら。 右衛門左衛門」
「は」
「今回は多少強引でも早めに復権するわよ。 あんたのことも扱き使ってあげなくわないわ」
「私は姫様のお陰で生き返った身です。 私は姫様のために生きるだけです」
「あー、ウザい。 本当に鬱陶しいわね。 そういう辛気臭いあんたの考えを私は否定するわ」
 本来ならば、褒められるべき忠信を否定姫はあっさりと手酷く否定する。
 力強い否定に右衛門左衛門は幸福感すら覚える。
「あ、でもちゃんと、あの不愉快の女の情報も集めておくのよ」
「心得ています」
 だから、例え否定されてもこの生命は主のために尽くすのだ。



   002

 右衛門左衛門は主に散々に辛気臭い、陰湿と言われる顔を更に鬱屈とした者に歪めていた。
 むろん、その顔には『不忍』の文字が書かれた仮面が付けられ、表情は見えないのだが、それで隠しきれない陰鬱な雰囲気が溢れていた。
 主に命じられて奇策士と奥州百刑場との関係を調べてきた。調べ上げてきた。
 その結果は、やはり黒だった。そこはさすがは主の慧眼と思えたが、しかし、事はそれだけでは済まなかった。
 結果が黒すぎた。真っ黒だ。漆黒の暗黒だった。
 この結果を、主に報告しないわけにはいかない。
 だが、報告すればきっと主は大いなる不満に襲われるだろう。
 それでも、彼は忠実にありのままの調査報告を伝えた。
 そして、案の定、否定姫は未だかつて見たことのない苛立ちを覚えていた。
「本当に本当に、あの女はどこまでも不愉快よね」
 それは問いかけるような言葉だったが、しかし右衛門左衛門は何も答えない。
 それが答えを求めるような言葉ではないと分かっていたから。
 だから、代わりに酷く事務的な、役割的な問いを返した。
「それで、奇策士の処遇いかが致しましょうか」
「いかがも何も、あんたの報告が確かなら、やることは一つでしょう」
 つまりは、右衛門左衛門の手で処罰しろということ。それが監察所の仕事なのだから。
 しかし、それはあくまで役割としての言葉で、役目としての義務であって。
 主である否定姫の望むところではなかったはずだ。
「右衛門左衛門、私たちは一体何度あの不愉快な女に蹴落されたんだっけ」
「それは――」
「あー、良いわよ本当に答えなくて。 っていうか、そんなもの本当にいちいち覚えてんのあんたは? どこまでも陰湿で鬱陶しい奴よね」
「申し訳ありません」
「はん、謝ってあんたの陰湿は治るのかしら? 少なくとも私にはそうは見えないけどね」
 その言葉は、いつものような鬱陶しがるようなものとは違う、苛々とした刺々しい物言いだった。
 まるで、気に入らないことがあって八つ当たりをしているような、物言い。
 右衛門左衛門はそれがまるでもようなも、ズバリそのままだと分かっていた。分かっていながら甘んじた。主の苛立ちを受け止めるのも役目だと、それが右衛門左衛門の考えだった。
「だけどさあ、その考えるの思い出すのも億劫なくらいに私はあの不愉快な女にしてやられてきたわ。 だから今度は私があの不愉快な女を同じくらい辛酸を舐めささせてあげるつもりだったのに、結局これじゃあただの一回だけどん底に突き落とすしかできようがないわ」
 それが、ひどく恨めしい、と否定姫は想いを吐き出す。
「ならば、この件握りつぶしましょうか? 多少面倒ではありますが、やってやれないことは無いはずです。 それにどのみち今の幕府は」
「否定する。 私はそんな腑抜けた提案を否定するわ。 例えどれだけ不本意だろうと相手が見せた隙を見逃してやるほど私はお人好しでもなければ、余裕もないの。 全ては単にあの不愉快な女の迂闊さよ」
 それは今まで聞いたことな無いほどに強い否定だった。
 本当に否定したいことを、否定するためにあえて強く否定を重ねた言葉に右衛門左衛門は聞こえた。
「ならば、私はこれより職務を全うしてまいります」
「いちいち言わずに行けばいいでしょうが、本当に鬱陶しいのよ」
 仕事ならば、やることが明白ならばわざわざ報告してから出かけるなどムダでしか無い。
 それでも右衛門左衛門がわざわざ確認するように言ったのは、彼が動くのは仕事だからではないからだ。
「私が動くのは姫様のためだけです。 故に姫様のお言葉でしか動きません」
「本当に鬱陶しいのよあんたは。 さっさと行ってきなさい」
 その言葉を受けて、ようやく右衛門左衛門は天井裏より去った。
 その後、奇策士とがめ――先の大乱の首謀者飛騨鷹比等の一人娘容赦姫を炎刀『銃』にて殺害。
 彼女の刀であった虚刀流七代目当主にして四季崎記紀の完了形変体刀、虚刀『鑢』たる鑢七花との壮絶な戦いの末、討ち死にした。
 それは歴史的必然でったかもしれない。
 それは四季崎記紀の思惑なのかもしれない。
 だが、彼は、主に否定されながらもその命を主のために尽くした。
 否定姫のために戦って死んだ。
 その彼の生き方を、死に様を、否定姫は否定することはなかった。



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