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 せっかく見ていただいてなんなのだが、彼我木輪廻について語ることはない。
 お叱りはごもっともなのだが、しかし語ることがないものはないのだ。
 いや、事実を誤魔化した上で語らないというのはさすがに失礼になるから、恥を偲んで、恥ずかしげもなく、本当のところを言わせていただくのならば。
 彼我木輪廻について語る術がない。
 それは彼我木が歴史に対して干渉を持たない故に、語るべき物語が無い、という訳ではない。
 そういった意味合いも、少なからずあるがそれはオマケ程度の問題だ。本来的な意味合いはもっと、どうしようもなく対処の仕様がない問題である。
 そもそもにおいて、仙人である彼我木に個性というものは存在しないのだ。
 結局のところ、それは全て見た者の、観測した者の心の中でしかなく、彼我木輪廻個人の個性では決して無い。
 例えば、鑢七花ととがめが出会った彼我木輪廻はこの二人の苦手意識が形になったものでしかない。外見は鑢七花が苦手意識を持った者たちを合わせた姿に、内面はとがめが苦手とする者の性格に。
 そしてそれは他の者が観測すれば、全く別の彼我木輪廻が出来上がってしまうのだ。
 ここでかつて四季崎記紀が彼我木輪廻に誠刀『銓』を託したときの話を語ったとしても、結局のところそれは四季崎記紀の苦手意識について語ってしまうことになるのだ。
 それはここで他の登場人物が出会っていたという嘘歴史を想像したところで、あるいは登場人物に名を連ねていない人物を登場させたところで結果は変わらない。その人物の苦手意識を語るだけだ。
 あるいは、まだ彼我木が人間だった頃の話を持ち出したところで、それは彼我木輪廻であって彼我木輪廻ではない。人間である彼我木輪廻と仙人となった彼我木輪廻は同一存在でありながら全くの別物である。
 語ろうと思うならば、彼我木輪廻という存在を固定しなければならないが、仮にそれが出来たとしても、それは既に彼我木輪廻ではありえない。
 故に、彼我木輪廻について語ることはない。
 語るすべがない。
 嘘歴史の嘘歴史らしく適当に騙ることも、この場合は難しい。
 結局のところ、彼我木輪廻の存在は歴史的異物なのだ。
 それでもあえて語ろうとするのならば、語らないことで彼我木輪廻という存在を語ろう。
 語れないという事実が、彼我木輪廻を語っている。
 いささか失礼で、誠実さに欠けた話になってしまったが、それでもこれが精一杯の誠実さで語る彼我木輪廻の物語だ。



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