001

「私や嫌です!」
 そんな言葉が、道場に響き渡る。
 向き合うのは若い女と老いた男。
 その二人が睨み合って、否、若い女のほうが一方的に老人を睨みつけていた。
「私は、こんな道場を継ぐ気などありません!」
「しかしな、お前が継がねばこの道場は潰れる。 それは我が心王一鞘流が潰えることを意味する」
「潰れればよろしいではないですか! こんな、門下生などすでに一人もいない道場など! それにこの太平の世の中で剣の道を志すことに何の意味があるのです! 潰えるというのならば、それも時代の流れ。 潰えてしまえば良いのです」
 その言葉は、あんまりと言えばあんまりな言葉だった。
 自分の流派をこのように言われれば、怒りを持って返すのも、手を上げたところで仕方あるまい。
 だが、老人は手を上がるどころか怒りの感情すら表に出さずに言う。
「時代の流れ、か。 確かにそれが風化していくものを無理に止めようとするのも無様なのだろう」
 否定されたことを否定せずに肯定した。
 その言葉は一抹の寂しさがあった。
「だったら!」
「だがな、それでもいかに時代が流れ、歴史の変節があろうとも、それでも人が常に己が内に持っていなければならない芯というものがある。 我が流派はそれを世に伝えるための流派だ。 それ故の活人剣だ。 人々に必要とされてないのならば、それはそれで構わない。 しかし、必要とされたときに我が流派はその求めに応えねばならない」
 その言葉は若い女の荒々しい声とは反対に落ち着いた澄んだ声だった。だが、その声が持つ力は若い女の言葉よりも強く相手の心を打ち付ける。
 それでも、若い女は飲まれそうになるのを必死にこらえて老人を睨みつける。
「そんな悠長は話、私はごめんです。 それに心の在り方を伝えるというのならば、この村の伝統である将棋でもよろしいでしょう! 将棋の中にだって人の心の中を打つものはあります」
「そうだな。 確かにそれで伝えられるものもあるだろう。 将棋では伝えられないものを伝えるのが剣術だ、などとは言いはしないよ。 だがな、お前は将棋で何かを伝えられるのか? 将棋がどうではなく、お前自身が将棋を通して、何かを伝えることが出来るのか?」
「っ!」
 老人の言葉は静かながら、正面から娘の性根を打ち据える。
 ここでシッカリと返せるようならば、きっと老人は何も言わないだろう。娘の好きなようにさせたのだろう。
 だが、娘は言葉に詰まり、何一つとして返す手がなかった。
「お前の将棋は娯楽であり、横道に逸れているのに過ぎない。 お前自身が本当に決めた進むべき正道を、王道を歩まねば、お前自身が傷つくことになるぞ。 そうでなければ、辿り着けない境地というものがある」
「それが、剣術だと言うのですか! それこそ勝手な言い草ではありませんか!」
「剣術がそうだなどとは言わんよ。 継いで欲しいというのはやはり私の我侭だ。 だがな、結局のところ剣術とは違う道を歩むのではなく、ただ剣術からの逃げ道としての道しか探していないお前には、きちんと剣術と向かい合った上で、お前自身の王道を見つけて欲しいのだ」
「私は……」
 返す言葉など無い。
 老人の言葉は全て彼女自身が自分自身にすらひた隠しにしてきた想い。
 それを見事に打ち付けられ、それでも尚、自分の意志を尊重しようという言葉に対して、反論する言葉がなかった。
 だから、結局のところせめて言えた言葉は、子供のような自分自身の主張だけだった。
「私は、この道場を、心王一鞘流を、汽口慚愧の名を継ぐつもりはありません!」
 そう言い渡して、娘は道場を飛び出した。
 その後姿を見る老人――汽口慚愧の表情は予想外にも穏やかな微笑みだった。



   002

 娘は決して祖父のことが嫌いではなかった。
 むしろ、両親を失ってから自分を育ててくれた祖父には感謝してもし切れない。
 だから、恩を返すというのならば、道場を継いであげるべきなのかもしれない。
 だが、娘は観てきたのだ。
 門下生のいない道場を持つ祖父の姿を。収入などろくに無いのに、自分を育ててくれた祖父の苦労を。
 ならば、道場など剣術など捨てて、もっと楽な道を歩ませてやることのほうが恩返しになるのでは無いのか。今後、剣術が必要になる時代がそうそう来るとは思えない。また、来て欲しいなどとも思わない。
 先の大乱、まだ子供だったとは言え、それの虚しさと悲しさは娘もある程度知っている。
 なにせ、両親を失ったのだ。
 その事も娘が剣術を避ける理由の一つなのかもしれない。
 そう、だから、つまるところ逃避なのだ。
 祖父のためだとか時代の流れだとか、そんなものは全て逃げ道でしか無い。
「詰みです」
「……あ」
 パチンと、駒が置かれた盤上を見やる。
 なるほど、確かに足掻きようがない完全な詰みだ。
「参りしました」
 娘は潔く負けを認めて頭を下げる。
 いくら逃げ道とは言え、将棋が好きなのは嘘偽りがない。
 その将棋で見苦しい真似はしたくなかったのだ。逃げ道としている以上、それ以上にはなおさらに。
「やはり、あなたは筋が良いですね。 今はまだ未熟な部分もありますが、この道に精進すれば名が響く程の棋士になれるかもしれません」
「そんな、大袈裟です」
 とは言ったものも、やはり好きな将棋の腕前をそう評価されて嬉しくないわけがない。
「しかし」
 だが。
「そうなることは、残念ながら無いのでしょうね」
「え?」
 続く言葉に、浮かれた気持ちは直ぐに沈む。
「あなたの指し方には、あなたの将棋への姿勢は極めようという形が見えてこない。 確かに良い筋ですが、それを極めようという気持ちがあなたには無い。 それでは上手い素人、というのが精精です」
「…………」
「気分を害されたら申し訳ありません。 しかし、やはり勿体無いという想いがあったので」
「いえ……貴重なお言葉ありがとうございます」
 そう言って、深々と頭を下げた。
 逃げ道ですら、逃げていることを指摘されてしまった。
 やはり中途半端な自分にはどこにも到達することなど出来ないのか。
 そんな考えが過ぎったとき、彼女の転機を知らせる声が舞い込んできた。
 もっとも、それが決して幸運な知らせというわけではない。
 何故なら、彼女が慕う祖父が倒れたという知らせなのだから。



   003

 元々、高齢だった上に一人で孫娘を育ててきたのだ。その無理が祟ったのか、ここのところ調子が悪かった。そして、ついに今回、急に倒れるような自体になってしまった。
 剣術を志していただけに、年齢の割に丈夫とは言え、それはあくまで年齢の割にでしかない。
 そもそも、どれだけ剣の腕があろうとも、病や老いには勝てるものでもない。
「お祖父様! しっかりしてください!」
「はは、大丈夫。 孫娘の顔を見間違えるほどに耄碌していないよ」
「そういう問題ではありません!」
 この期に及んでも、まだ穏やかに笑いかける祖父に、孫娘のほうが泣きたかった。
 いつまで、自分は祖父に迷惑を掛け続けるのかという想いが彼女を責める。
「しかしまあ、確かにそろそろお迎えが来るのかもしれんな」
「何を弱きなことを!」
「はは、まあそれでもこうしてお前がいるときに、まだ意識があったのは幸いよな」
 そう言って、まるで遺言でも残すように言って、もう力が入らないだろう腕を伸ばして、近くにあった一本の木刀を手にして、孫娘の方へと持っていく。
「お祖父様、それは」
「そう、我が道場に伝わる我が流派の証。かの四季崎記紀が残した完成形変体刀十二本の内の一本、王刀『鋸』だ」
 それは一見して、平凡な木刀だった。
 確かに木刀にしては凝った意匠が施されてはいるが、それくらいでとてもこれが伝説の刀鍛冶の作品とは思えないようなシロモノであった。
 そもそもにおいて、刀鍛冶が、それも戦国の世の刀鍛冶が木刀などというものを作ることからして異質だ。
 だが、孫娘はそんな事よりも、今、この場面においてそんなモノを持ち出したことの意味のほうが重要だ。
「お祖父様、申し訳ありませんが、私は――」
「解っているよ。 何も無理に道場を継げだとか、流派を頼むとかそんな事を言い出すつもりはない。 この『鋸』をお前に渡すのはそういう意味ではないよ」
「では、一体?」
 他にこの場面で、こんなモノを渡す理由など、他に思い当たらない。
 第一この木刀はそういったモノを受け継ぐ証ではないのか。
「そうではないよ。 それは己の道を歩むための証だ」
「己の道を?」
「まだ、お前には見えていないかもしれない。 だがな、いずれは往かねばならない。 その時、自分の中にある道を覆い隠す闇を斬って道を照らしてくれるだろう」
「そんな……」
 そんな事はただの気の持ちようで、木刀を持ってどうこうなるものではないはずだ。
 普通なら。
 だが、普通では無いという四季崎記紀の変体刀、それも完成形と呼ばれる刀ならばあり得るのか。
「まあ、騙されたと思ってその木刀を構えてみよ。 その時、お前の心にある闇を斬ることが出来るだろう。 そしてお前ならば、ちゃんと道を見つけられるはずだ」
「…………」
 孫娘は無言で差し出された『鋸』を受け取る。
 決して信じたわけではない。
 だが、祖父の頼みを、この程度の願いを叶えてやることを拒む理由もなかった。
 ただ、それだけのつもりだった。
「――!?」
 だが『鋸』を持ち、構えた途端、心のなかにあったモヤが晴れた。
 いや、晴れたというような緩やかな変化ではない。まさに切り裂いたと表現すべき急激な変化だった。
 自分が将棋を剣の道からの逃げ道として使っていたことを、すんなりと受け止められた。
 自分が剣の道から逃げていたのは、祖父が苦労する姿を、そして両親を奪われた事から目を逸らしたかったということ。
 それでも、大好きな祖父が、そして今は亡き両親が守ってきた流派を誇りに思っていることを。
 それらを覆い隠してきた、自分の中の言い訳がましい闇が切り裂かれた。
「これ、は?」
「王刀『鋸』限定奥義『王刀楽土』」
 呆然とする孫娘の耳を、祖父の凛とした声が打つ。
「儂も以前は心王一鞘流を嫌っていた。 お前よりも酷い。 活人剣に意味など無い、剣術など人を殺すためのものではないかと、そんな風に思っていた。 しかし、その王刀『鋸』を持った途端、儂の中にあった、そんな心は消えていた。 そして儂は剣術の答えを知りたくて、流派と名を継いだのだ。 そうあの時の儂は確かに生まれ変わったような気分だった」
 それは、初めて聞く話だった。
 だが、今更それを疑う気持ちはない。
 何故なら彼女もまた、すでに体験したのだから。
「己の道を阻むものは己の内にある。 お前がどのような道を進むにせよ、決してその道を見誤らぬように、その刀を託したい。 受け取ってはくれるか」
「喜んで……お受けいたします」
 その言葉は意外にも素直に出た。
 あるいは、これも王刀の効果なのかもしれない。
 だからこそ、今までなら決して口にするようなことがなかったことも言えた。
「そして、失礼ながら、他にもお受けしたいものがあります」
「……言ってみよ」
「心王一鞘流の道場と、汽口慚愧の名を」
「良いのか? お前が進むべき道は他にもあるやもしれぬぞ」
「はい」
「そうか、ならばたった今からお前が汽口慚愧だ」
 こうして、王刀『鋸』は新たな使い手へと受け継がれた。
 そして、心王一鞘流当主、汽口慚愧もまた新たな世代へと引き継がれた。
 それから僅か数日のうちに、先代はこの世から旅立った。
 葬式は慎ましやかに行われ、しかし村の人達のほとんどが訪れた。
 確かに、このご時世に剣術など必要とされず、現に門下生など一人もいなかった。
 だが、それでも、先代汽口慚愧は村の人から必要とされていた。
 それは王刀『鋸』を譲ったとしても変わることはない事実だった。



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