001 不承島。この島がそう呼ばれるようになったのはここ数年の事だった。 父一人、娘一人と息子一人の三人がこの島で暮らすようになってから、便宜上彼らによってそう名付けられた。 外界と隔たれた世界。 その中で生きる一つの家族。 本来ならば、そのような過酷な環境であれば家族一丸となって生きていかねばならない。 だが、それでもそのような環境にありながら、いやそもそも家族でありながら、隔絶された世界の中で更に隔絶された存在がいた。 「七実、これより七花に稽古をつけてくる。 お前は決してくるではない」 「……はい」 父、鑢六枝は自分の娘にそう言い渡して、息子だけを連れて稽古へと向かった。 娘を残して、息子だけを連れて行った。 その後姿を、七実はただ見送る。 無言で、泣き言も言わず、見送る。 やがて、二人の姿が見えなくなった頃、七実はようやく言葉を発した。 「それじゃあ、そろそろ私も行きましょうか」 邪悪そうな笑みを浮かべて。 いつからか、いやきっと初めからだったのだろう。六枝と七花が稽古に出たのを見送った後、七実もまた二人の後を付けていた。そして、ジッと見ていた。 父の六枝が弟の七花に厳しく指導しているのを。 弟の七花が父の六枝の教えを受けて、一生懸命頑張って修行しているのを。 戦国の世から先の大乱でも活躍した虚刀流の修行を。 ジッと見ていた。 修行に励む弟の七花にはもちろん、先の大乱で英雄とも言われた六枝にも気づかれることなく。 その事実こそが、七実が六枝に隔離されている理由だった。 並外れた、否、桁外れな才能こそが六枝に選ばれなかった理由。 七実はあまりにも強すぎた。 英雄である父の教えを受けるまでもなく。 虚刀流の技を修行するまでもなく。 七実は不適合だったのだ。 熟した果実をそれ以上育てても無意味なのと同じように、すでにその才能は育てようがなかったのだ。 だが、それでも七実は子供なのだ。 鑢六枝の娘、鑢七実なのだ。 だから七実は六枝に隠れて近くから見ていたのだ。 自分には向けられない、父の教えを愛情を受ける七花を見ていたのだ。 それしか、やることがないから。 それくらいしか、許されていないから。 いや、本来ならばそれすらも許されてはいないのだ。 それでも、だから。故に、七実は二人の修行をジッと見ていた。 002 さて、ここまで散々に七実の惨々な才能について語ってきたが、そんな彼女にも欠点と言えるものが無いわけではなかった。それは彼女の方向音痴にあった。 「参ったわねえ、こっちだと思ったのだけれど」 六枝と七花が修行を切り上げたのを機に、七実もまた住処にしている小屋へと帰ろうとした。 帰ろうとしたのだが、帰れなかった。 自分の家への帰り道を間違ったのだ。 迷った。 迷子だった。 「別に牛や蝸牛の後に付いて行った覚えはないのだけれど」 そんな微妙に次元も時間もすっ飛ばした発言をしながらも、のんびりと歩いていた。 こういう場合、大抵歩けば歩くほどに迷っていくものなのだが、それが分かっていればそもそも迷子になどならない。 つまりはどんどん迷って行っている最中だった。 「父さんたちは心配してるのかしら?」 あまり期待を込めないでそう呟く。 はじめからそんな事はありえないと決めてかかった言い方だった。 「まあ、帰れなかったら帰れなかったで、そこら辺で一晩明かせばいいわね。 さすがに明るくなれば帰り道もわかるでしょうし」 それもまた、ずいぶんと投げやりで心許ない打開案だった。 本当に帰る気があるのかも疑わしく感じてしまう。 あるいは――帰る気など無いのか。 外界から隔絶された孤島の中において、家族からも隔絶された自分に帰る場所などないとでも思っているのかもしれない。 「それじゃあ、今日はここら辺で休むとしましょうか」 そう言って、疲れたため息を吐いて、近くの木の根元に腰掛ける。 その姿はとても様になっていた。 元々、病弱で線が細い七実にはそういう弱々しい儚げな仕草が怖いほどに似合う。 「このまま眠って、目を覚まさなかったら私はどうなるのかしら? 彼岸とか言う場所に言って、母さんに逢うのかしらね」 それは嫌だ、と初めて、そこで明確な感情が表に出る。 明らかな嫌悪。 先立った母親へと向けるにはあまりにも相応しくない感情が浮かび上がっていた。 「まあ、それでも贅沢は言えないし、それにそもそもこの程度じゃ私は私を死なせてはくれないでしょうね」 諦めきった、疲れきった声で言う。 ため息と同様にとても似合っているが、彼女の年齢を考えると似合うことが問題だ。 とにもかくにも、疲れた身体を休ませてしまおうと眠りに落ちようとしたとき、彼女の耳はその音を捉えた。 視覚ほどではないにせよ、聴覚もまた常人とは比べものにならない程に発達した七実にはその音の正体が何であるか、ハッキリと聞き取れた。 誰かを呼ぶ声だ。 誰か子供が必死に誰かを呼んでいる。 いや、七実の耳を以てすれば、それが誰だなのか何を言っているのかハッキリと聞き取れる。 それ以前に、この島に子供など一人しかいない。いや、その一人ですら七実は今までこんな必死な声を聞いたことがない。 だが、聞き間違いではない。これは――。 「七花?」 七実の弟の声だった。 彼女が欲しい物を全て持っている弟が叫んでいる。 大切なモノを無くしてしまったように叫んでいる。 「ねえちゃん! ねえちゃん、どこだよー!」 姉である七実を求め、探していた。 そのことに、七実は衝撃を受けた。 医者に匙を投げられた時も、母親が死んだ時も、島流しにあった時も、そして父親に拒絶された時も「ああ、やっぱり」としか思わなかった七実が、強い衝撃を受けた。 それ程に意外だったのだ。 誰かが自分を求めるということが。 だから、七実自身、いつからそうしたのか分からなかった。 気がつけば、七花の目の前に姿を表していた。 「七花」 「あ、ねえちゃん。 ようやくみつけたよ。 どこいってたんだよ」 目の前に現れた、姉を見て弟の七花はようやく安心したような表情になった。 安心して笑った。 それが七実には――。 「七花、なぜこんな所で私を呼んでいたの?」 「なんでって、ねえちゃんをさがしにきたからにきまってるだろ」 ――理解できなかった。 「何故、私を、探しに来たのかしら」 「なんでって、そんなのきまってるだろ」 七実よりも数段考えることが苦手な七花は、それでもそんな疑問に簡単に答える。 そもそも疑問にすらならないとばかりに。 「ねえちゃんがいなくなったからだろ。 ねえちゃんが、かぞくがいなくなればさがすのにきまってるじゃん」 その言葉に、その答えに、七実はろくな反応が返せなかった。 代わりに、話を逸らすように、七実はもう一点気になっていることを尋ねた。 「ねえ、七花。 その手に持ってるのはなにかしら?」 「うん? ああ、すいかだよ。 かえったらみんなでたべようとおもったらねえちゃんがいないんだもん」 どうやら、姉がいないことに気がついたときに持ったまま飛び出してきてしまったようだ。 いくら鍛えているとは言え、そんな重いものをこの小さな体で持って歩きまわるのは疲れただろうに。 実際、どれだけ歩き回ったのかは知らないが、七花の息は上がっていた。 「そう、それじゃあここで食べちゃいましょう」 「ん? おやじがいないのにか?」 「真っ先に私を見つけることが出来たご褒美よ」 「ああ、そうなのか」 そんな言葉で、あっさりと納得してしまった。 やはりまだ子供ということか。 七実は七花を伴って今さっき休憩しようとした、樹の根元へと移動する。 「それじゃあ、切って分けましょうか」 「あ、でも、おれはまだとうちゃんほどうまくきれないぞ」 「大丈夫、私が切ってあげるわ」 そう言って、七実は七花が持ってきた西瓜を素手で綺麗に切り分けた。 硬い皮も、水分を多く含む中身も崩すことなく綺麗に、名工の刀を使ったように容易に切り分けた。 「すげえな、ねえちゃん。 まるでおやじみたいだ」 「あなたもこれくらいは簡単に出来るようにならないとだめよ」 「おう、おれもがんばんばる」 そう言いながらも、切り分けられた西瓜にかぶりついていた。 七実も、自分で切り分けた西瓜を一切れ手に持って、一口齧る。 疲れていた身体に水分と糖分が染みこんでいく。だが、それ以上に今までの食事では味わえなかった充足感が満たされている。今までに味わったことのないほどの幸福感。 それは普通の人間なら普通に感じることができる感性を、初めて七実にもたらした。 「美味しいね、七花」 そう言って、横を見ると弟の七花は眠ってしまっていた。 やはり、修行の直ぐ後に歩きまわって疲れたのだろう。休息を取ったことで眠気に襲われたようだ。 しかし、眠ってしまた七花に七実は不満を持つことはなかった。 自分を探しまわってくれた存在。 自分の帰りを望んでくれた存在。 自分の存在を認めてくれた存在。 自分の帰る場所。 自分の家族。 自分の弟。 七花を見て、七実は。 邪悪でない優しい笑顔を向けた。 ジッと見つめるのではなく、微笑ましく見守った。 戻る |