001

 揺れている。
 グラグラと揺れていた。
 足元は定まらず、視線は彷徨い、思考は混濁する。
 目の前は闇。
 ここが何処だか、今がいつなのか、自分が誰なのかも分からない。
 そのうち、この暗い闇の中に色が混じった。
 だが、その色も闇だ。
 赤くて朱くて紅い闇だ。
 その中心に、一つの影が横たわっている。
 近づいてはいけない。
 見てはいけない。
 叫び声を上げたつもりだった。だが、声は音にならず、叫びは届かず、影へと近づいていく。
 この時にはもう、揺れていた思考はまとまり、これがなんなのか気がついていた。
 感情の揺れ幅だけは大きくなっていく。だが、荒波のごとく荒れ狂う感情でも動きを止めることが出来ない。
 結末が分かっているのに、見たらどんな想いをするのか解っているのに、止まらない。
 やがて、ついには影の間近にまでたどり着いてしまった。
 横たわる影の正体がハッキリと見えたとき、声なき叫びが、感情の津波が、自分自身を引き裂き飲み込んでいった。



 鼻を突く匂い。
 塩と体臭、生臭さが混じった悪臭に嫌でも意識が覚醒する。
 それでもまだ、揺れていた。
 グラグラと、自分が横たわる床が絶え間なく揺れている。黒く変色した木板がギシギシと軋みながら揺れているのを、しばらく見つめいている。酔って気持ち悪くなりそうだが、すでに何年も見続けたそれは、むしろ精神を安定させてくれる。
 本当ならば、いつまでもそうやって眺めていたいが、そんな事をしていれば、永久に覚めない眠りへと強制的に落とされるおそれが冗談抜きである。
 揺れ動く安定しない足場の上で自然に重心を取りながら身を起こす。今更この程度の揺れでフラつく事もない。その巨体の重心をしっかりと安定させて自身の持ち場へと歩く。
 向かう先はこの船の調理場だった。
 この船で彼に与えられた役割は単なる雑用。誰よりも早く起きて、他の船員が起きてきたときに不都合がないように下準備をして置かなければならない。
 最初のうちは、粗相をして海に放り捨てられやしないかと戦々恐々としていたものだが、今では作業も手慣れたものだ。要領よく朝餉の準備を済ませ、あまり意味があるとも思えない清掃を終えたころ、他の船員たちの姿が現れ始めた。
「おう、しっかりと働いてるだろうな」
「はい、後は運んでくるだけです」
「じゃあ、さっさと運んでこい。 腹が減ると気がたって何するかわからねえぞ」
「わかりましたよ」
 言葉数少なく了解すると、先ほど準備しておいた朝餉を運びこんでいく。自分と同じような雑用係も同じように、否、彼らは仲間たちと騒ぎながら運んでいる。
 そのなか、彼だけは黙々と、淡々と己の役割を果たしている。
 彼だけが、そのなかで異物であるように。異物であろうとしているように。
 だが、それでも彼はこの船の船員なのだ。どれだけ異物を振舞おうとも取り込まれていることには変わりがない。
「おい、今日も仕事があるぞ」
 そう言った男が意図はしていないだろうが、それでもその言葉は彼には決して逃れられないという忠告に聞こえた。
 どれだけ忌み嫌おうとも、憎しみを募らせようとも、結局のところここに取り込まれるしか生きる術がないのだと。
 この船が海賊船であるという事実からは逃れられない。
 自分自身が海賊の一員であるという事実から背けられない。
 例え、自分の役割が略奪行為そのものではないとしても、何の言い逃れも出来ない。
 それでも、そうするしか生きることが出来ないのが、彼の――校倉必の現状だった。



「必、仕事だ。 こっちに来い」
「あ、はい」
 また一つの船が海賊の略奪行為の犠牲に遭った。
 船員は皆殺しにされ、積荷はこうして必の手によって目ぼしい物は海賊船へと運ばれていた。
 その積荷の搬送作業の最中、船長が必を呼ぶ。
 まだ何か運ぶものがあったのかと、必は船長の声がしたと思われる方へと向かっていく。それがどれだけ不愉快であろうとも、不本意だろうとも、従うしか無い。拒めるわけがない。
 だが、それでもその場所に着いたとき、拒むべきだったと後悔した。何かしらの言い訳を使えば、心証を悪くするだろうが、ここに来ることを拒むことは出来たはずだったのだ。
 もちろん、必に先の事を知ることなど出来ない。結局のところ、この後悔は己が今最善と思って行動した結果なのだ。そして、一度起こしてしまた行動は覆らない。
 そこには、二人の子どもが真っ赤になって倒れ伏していた。
 男の子と女の子。
 男の子は自分よりも小さな女の子を抱きすくめて倒れている。
 どう見ても、二人とも死んでいる。
「おい、必」
「っ! は、はい」
 船長に呼ばれ、釘付けになっていた視線を船長へと向ける。
 そこで見たのは、ニヤニヤと悪びれた様子もなく、しかし意地の悪い笑みだった。
「どうした? ボケッとして」
 理解した。
 船長がなぜ自分を呼んだのかを、必はその時ハッキリと分かった。
 試したのだ。
 必がこの海賊団に組み込まれてから5年。ただただ従順に鈍感に従ってきた。生き延びるためにも、素直に従い役目をこなして生き延びてきた。
 その結果、一定の信頼を得るほどにはなってきた。
 そう、この海賊団に伝わる伝説の刀鍛冶、四季崎記紀の変体刀の一つ賊刀『鎧』の管理を任されるくらいには。
 だが、それでも一定でしか無い。あくまでも部外者でしかない。
 だから、ここに来て必の忠誠心が本当のものか、否、例え忠誠など無くとも刃向かうことが無いかを試したのだ。
 この二人の子どもの死体を見せることで。
 この兄妹の死体を見せることで。
 海賊団に家族を、目の前で妹を殺された兄の気持ちを試したのだ。
「いえ、子どもがいるのが珍しくて」
「ああ、そうだな。 どうやら親に黙って潜り込んでたみたいだ。 だめだよなあ、ちゃあんと親の言う事を守らないから、こうやって天罰に遭うんだ。 なあ、必?」
 ニヤニヤと。
 ニタニタと。
 粘り着くように言う。
「そう、ですね。 馬鹿なガキどもです。 本当に――」
 それに、必は答える。
 決して調子を合わせたわけではない。
 その言葉は心のそこからの本心だった。
「ガハハハ、そうか! お前もそう思うか!?」
 必の答えに大いに満足した海賊団の船長は腹の底から笑い出す。
 だから、気がつかなかった。その時の必の目を。そこに宿る覚悟を。
「それで、船長。 ご用件はなんでしょうか?」
「おう、そうそう。 ここにある食料も運びこんでおけ。 海の上じゃ食料は何にも勝る貴重品だ」
「わかりました」
 そう言うと、早速作業へととりかかる。
 最後の荷物を、搬入する際に一度だけ、馬鹿な兄妹へと視線を送った。



 その日の晩は、宴会さながらだった。
 よっぽど、今日の船の収穫がよかったのだろうか。
 それもあるだろう。
 だが、もう一つ、必の従順さを確かめたという意味合いも含まれていた。
 だから、だから、船長は最後の失態を犯したのだ。
「おう、必。 お前、あの『鎧』着てみるか?」
 今や誰も装着することが叶わない賊刀『鎧』。
 しかし、必の体格ならば、あの日、『鎧』を見てから成長した、まるで『鎧』に相応しい体躯を創り上げるように成長した体ならば、着れるだろうと思ったのだろう。そして、着たところで逆らわないだろうとも。
 それは半分あたりで半分外れだった。
 まるで刀自身が所有者を選んだかのように育った必の体躯は『鎧』に相応しかった。
 だが、彼は決して忘れたわけでも許したわけでも割り切った訳でもないのだ。
 彼の心の底には未だに怒り恨み憎しみが渦巻いていた。
 校倉必は自ら所属する海賊団は心底憎んでいた。
 この二つの要素が一致すれば、後は導きだされる解はひどく簡単だった。
 海を荒らし、近隣から恐れられていた海賊団は一夜にして全滅した。
 海の藻屑と消えた。
 その後、校倉必を長とした海賊団『鎧海賊団』が発足することになったのだが、彼が何を思って憎しみの対象である海賊を生業として続けたのかは、彼の口からは語られることはなかった。
 他に生き方がなかったという者。
 二度と暴虐な海賊が現れぬように自らが仕切ったという者。
 力を手にしたとたんに奪う側の快楽に堕ちたという者。
 憶測は様々だ。
 だが、彼の覚悟は彼自身の『鎧』よりも固い胸のうちに秘められたままだ。



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