ミッドチルダ郊外 PM14:52


 クロノは我武者羅に走っていた。
 自分でもその様が無様だというのは分かる。酷く惨めで情けなく格好の悪い姿だろう。
 だが、そんな有様など構っていられない。自分のような未熟者に見た目の格好など気にする様の余裕などない。ただひたすらに必死で動き続けるしかない。
 そうでもしなければ、この鬼ごっこを生き延びることは出来ない。

「くっ――」
<Stinger Ray>

 後方に振るったデバイスの先から高速直線射撃の攻撃魔法が放たれる。
 しかし、それは例によってあらぬ方向に飛んで行き目標を撃ち抜くことなく弾けて消えた。これで通算4度目の失敗だ。そして腕に走る3度目の激痛。制御に失敗した余波が術者へと跳ね返る。
 このままではこちらの腕が使い物にならなくなる。それは今の状況で好ましい事態とは言えない。なにせ既にもう片方の腕は使い物にならなくなっているのだ。


 訳も分からず逃げ出したクロノはある程度走ったところで息を整えるために立ち止まった。
 そのときに大分距離を離したはずの男がクロノに苦もなく、音もなく追いついてきていた。接近に気付かせることなく行った奇襲は、しかしながら失敗した。
 大動脈を断ち切るはずだった一撃を、差し出した左腕で受けたために筋を切られて片腕が使えなくなったに止まったのだ。
 何故咄嗟に左腕を突き出したのかはクロノにも分からない。分かっているのは自分が相手の接近にまったく気が付いていなかったと言うことくらいだ。
 それはそのまま自分と敵との実力差を意味していた。

 そう、敵なのだ。既にあの見知らぬ男は。
 何者だかは知らないが、それでも大凡の予想だけならクロノにも付いている。多分、あれがリーゼたちが探している『殺し屋』なのだろう。そしてあの男が負っていた怪我は恐らく時空管理局との戦闘の末に受けた負傷なのだろう。もしかしたらリーゼ姉妹のどちらか、あるいは両方に付けられた傷なのかもしれない。
 物語フィクションの中だけの『殺し屋』なんていう存在キャラクターが今目の前リアルに存在している。
 こんな状況でもなければ感心するなり笑うなりしているだろう。だが、そんな余裕をクロノに与ええくれるものはいない。『殺し屋』に追われているのはクロノ自身で、現実リアルには物語フィクションと違って都合よく助けてくれる『正義の味方』なんて登場人物表に名を連ねていないのだ。

(くそっ、なんだってそれでリーゼたちの顔が思い浮かぶんだよっ)

 今までどれだけ魔法を失敗し、組み手に敗北し、術式構造が理解できず、筋力トレーニングのノルマを達成できず、敵と自分との向こう岸が見えない実力差を思い知った、それらのどれよりも強い敗北感と屈辱感、そして羞恥心にクロノはそれらを吹き飛ばす勢いでスティンガーレイを再び放つ。派手な閃光を残して消え、腕には痛みが残る。

 こちらからの射撃魔法は先程からの通りだが、向こうからは何故だか射撃魔法を使ってくる様子はない。あるいは使えないのかもしれない。それともそう思わせて油断させているのかも。
 考えれば考えるほどにきりのない可能性。それらがクロノの心と頭をかき乱す。


 結論から言えば男は射撃魔法が使えない。その理由は撃ち出した魔力で人に危害を加えられるほどの魔力量を所有していないからだ。男の魔力量はせいぜい良く見積もってもDランクだ。
 実質的には魔導師としては最低ランクの魔力量と言っても良い。

 だが、それでも人を殺すことは出来る。
 ごく僅かな魔力を研ぎ澄まし防御力を無視した体内の重要器官を穿ち断つ。それだけで人の命の火を消して、相手の人生を絶つことが出来る。
 少ない魔力で斬撃魔法を極小化して切れ味を増し、それを離れた見えない場所――標的の内部へと発生させる。この制御技術を身に付けるためにはかなりの年数が必要だった。練習台として魔法技術が発展していない次元世界において、四速歩行の家畜と思われる白黒斑模様の動物の内臓を多数刳り貫いたりもした。
 そうして得た高度な制御技術を要する魔法だけが男の唯一の攻撃魔法だった。

 他の魔導師が男が使う魔法を知ったのならば、まず間違いなく呆れるだろう。
 出鱈目に高度な制御技術を要する上に、その魔法は恐ろしく使い勝手が悪い。まず有効射程があまりにも短すぎる。対象の体内を切断しようとすればほとんど密着する距離でなければならない。おまけに外部を切ろうとしてもせいぜい皮と肉を多少切れるだけで、切断できるほどの長さもせいぜい小指一本斬る分しか確保できないと来ている。とてもではないが実践で使える代物ではない。

 だが男からすればそれこそ見当違いも甚だしい。男はそもそも魔導師を名乗るつもりも、戦闘技能者になるつもりもない。
 くどいようだが男の目的は殺すことの一点のみだ。
 人が人を殺すのに魔法にこだわる必要もないし、ましてや戦闘行為など愚の骨頂だ。
 ただ、証拠や足跡が残りにくいと言う利点ゆえにこの魔法を習得したに過ぎない。派手すぎる魔法は人目が付く上に残った魔力残滓の波長パターンから足が付く恐れだってある。
 他の方法で殺すときだって足取りが掴まれないように気をつけて仕事をしている。それは男にとって数少ない拘りとも言える。
 いくら体術を鍛え、魔法を練り上げようともソレに驕ることなく、相手に気付かれる前に殺す。それはこの先も永遠に変わることはないだろう。

 だから、と言うわけでもないのだが、この状況――こんな『狩り』は本来男の望むところではなく、またあまり得意なものでもない。
 それでも男はクロノの背を追う。

 先程からの射撃魔法を見る限りにおいて、あの小さな体躯のうちに収まっている魔力資質は中々のもののようだが、それをまったく活かせてはいないのも確かなようだ。射線が安定せず目標を撃ち抜けないどころか自分の体すら傷つけているようでは論外だ。身の内にある猛るものをまったく飼い馴らせていない。
 半人前以前、未熟どころか芽すら出ていない。所詮は子供だ。ただ勘が少しばかり良いようだがそれだけだ。

 しかし、もし、もしもあの子供が成長して自分の中のものを飼い馴らせるようになったら? 芽を出し開花させ実を付けたら? あの勘に磨きが掛かったら?

 男のクロノへ対する殺害意識はもはや脅迫的なものとなっていた。





 駄目だ。こんなんではいずれ追いつかれる。
 幾度目となるスティンガーレイが消え行く様を見ながらクロノは焦燥に駆られる。相手は近づくことでスティンガーレイの直撃を喰らうことを避けてくれたのか、一定の距離を離したままクロノの後ろについてきている。
 だが、所詮は大人と子供。その体力の差は決定的だ。いずれ疲れ果てた自分はあの殺し屋にいとも簡単に呆気なく殺されるだろう。
 そしてそれはそんな遠い先ではない。クロノの体力は確実に限界に近づいてきている。
 このままでは目的の場所まで持たない、、、、、、、、、、、、、、、、、

(イチかバチかだ!!)

 クロノは今まで何度も構成した術式を編みはじめる。
 足元に発生する力場。何度となく失敗した飛行魔法だ。
 確かにこれならば体力の消費を抑えられるし、移動速度もずっと速くなる。しかし、それは今まで成功したことのない魔法であり、それが今成功する保証もない。
 そんなことはクロノにも分かっている。いくらなんでも土壇場で今まで出来なかったものがいきなり出来るようになるなんて言う都合の良い展開があるなんて思わない。そんなことがもし本当に可能な者がいるとしたらそれは余程の才を持っているか、普段サボっているだけだ。
 そしてクロノはそのどちらでもない。
 だからきっと今回もまた飛行魔法は失敗するだろう。
 だが、出力制御のなっていない魔法でもクロノの小さな体を弾き飛ばすくらいは確実に出来る、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 そしてクロノの体はその目論見どおり、物凄い勢いでぶっ飛んだ。

「っっっっっづぅぅうううああああああああ」

 さっきまで走っていたときの速度など比にならない勢いで景色が後方へと流れていく。
 体を何度地面に擦り付けようと叩きつけようと止まらない。
 止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない停止はない止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない――止められない。

 そんなことをするつもりはないが、そもそも最初っからそんな制御など出来ない。
 ただ吹き飛ばされた勢いが無くなるまで飛び続けるだけだ。今クロノに出来ることはせいぜい目的の方向へと向かっていることと木にぶつかって挽き肉にならないことを祈るくらいだ。

 なんとなく後ろで自分を追っているはずの男がどんな顔をしているのか気になった。
 あの大きなギョロ付いた目を更に見開いて呆気にとられているのではないかと思うと、場違いに愉快な気分になる。

 そしてクロノの願いは届いた。
 途中で木にぶつかることもなく、目的地の方向へと吹っ飛んでいたのだ。それどころか、その目的地に辿り着くという僥倖に恵まれた。
 ソレを知らせるものが眼前に眩い輝きとともに迫ってきていた。

 ああ、ひとつ祈り忘れてた。
 クロノは今更になってそう後悔した。しかし考えようによっては一度に三つもの祈りを叶えて貰おうなどと言うのは虫の良すぎる話かもしれない。
 とにかくクロノはその可能性に関して完全に失念していた。
 リーゼ達が罠を仕掛けた地域に辿り着いたときに、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、真っ先に自分がその罠に引っかかると言う可能性に、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 しかしそんな後悔は目の前に迫る魔力光の輝きと衝撃、そして爆音にクロノの意識とともに掻き消された。





 男はそのただでさえ大きなギョロ付いた目を更に見開いていた。
 余裕を持って距離を保ったまま追っていたはずの子供が、不完全な飛行魔法で弾け飛んだと思ったら、次いでどこからか撃ち出された攻撃魔法が子供の体をさらに吹き飛ばした。

 何が起こっているのかわからない。
 男の人生の中でここまで訳の分からない展開は初めてだ。今日一日で男の常識を簡単に覆す出来事が次々と起こりすぎている。
 そのせいで思考に若干の混乱が見られる。こんなことも初めてだ。混乱で得られる得など何一つないというのに。

 混乱する頭で現状を必死に把握する。
 子供がまるで目的があるかのように走り続けていたのには気が付いていた。その迷いのない動きには確かな目的地があることが見て取れていたのだから。そしてその目的地が今本人が吹き飛ばされた場所なのだろうか。
 子供を吹き飛ばしたあの攻撃は誰かが狙って撃ったものではない。恐らく特定の範囲に人が現れたら自動的に攻撃するように予めセットされた攻撃魔法――要するに罠だ。
 子供の狙いはそこに自分を誘き寄せる事だったのだろうか。それならば予め罠があることを当然知っていたことになる。それなのに子供は男より先に罠に引っ掛かり吹き飛ばされた。つまりはここの罠を仕掛けたのはあの子供ではないということか。
 出会ったときに魔法の鍛錬をしていたことから考えると、ここはあの子供の修行場であの罠は子供を鍛えるためにあの子の師が仕掛けたものなのかもしれない。あんな子供を鍛えるために、あそこまで攻撃的な罠を仕掛けるあたりその師というのは余程破綻した人格の持ち主なのか、それとも弟子をいびることを愉しみにしていると思える。

 まだ多少の混乱が残っているが、なんとか現状を理解した。
 子供が罠の張ってある場所に這入った以上、自分もそこに行かねばならない。今の自分に遠距離から確実に相手をしとめる術は無い。
 無論罠には注意して進まなければならないが、所詮は子供用に仕掛けられた罠だ。いくら罠を仕掛けた人物が破綻した人格の持ち主だろうがショタコンサディストだろうが、弟子を鍛えねばならぬ以上はある程度罠の存在を見極められるように作られているはずだ。それならば自分にはさして問題にはならないだろう。

 そう判断した男はあの子供を確実に仕留めるために慎重な足取りで歩んで行った。
 その判断の甘さを彼の無能さや混乱によるものとするのは酷だろう。

 それは単純に、クロノ・ハラオウンの師匠、リーゼ姉妹は彼の想像以上に人格が破綻している上にサディストだったというだけだ。





 クロノの意識が飛んでいたのは僅かの間だったらしい。
 全身に響く慣れ親しんだ痛みに走り続けて鈍っていた体の感覚が嫌でも覚まされる。ついでに何故か意図しても居ないのに脳裏に浮かぶ師の馬鹿にしきった大笑いする姿に無性に闘志が沸いてきた。
 デバイスを支えにどうにか立ち上がる。身体中があちこち痛いがいつものことだ。つまりは戦闘続行可能状態。それどころか骨にも内臓にも深刻なダメージを受けていない証拠だ。
 クロノは泣きそうになっていた自分を圧殺し、代わりに沸いてきた闘志をもって殺し屋の男を睨み付ける。

 男はゆったりとした足取りで近づいてきている。恐らく既にここがどういう場所で自分がどういう意図でここに逃げ込んできたかなどお見通しだろう。それでも遠距離攻撃魔法を使用してこないところを見ると本当に使えないようだ。そして魔法以外にも遠距離から攻撃できるような術が無いのだろう。それはクロノにとって非常に大きなプラス方向の情報だ。
 そうなると相手は自分を仕留めるために罠があると分かっていても近づいてこなければならない。ここまではクロノは賭けに勝ったことになる。

 あと必要なのはクロノ自身の心構えだ。
 弱音を捨てろ。泣き言を吐くな。焦るな。パニくるな。浮かれるな。逸るな。驕るな。

 諦めるな――。

 相手は自分よりも遥かに格上の相手だ。本来ならば絶対に自分のようなものが太刀打ちできるはずの相手ではない。
 そして、それはいつものことだ、、、、、、、、、、
 ただ、結果だけを変えてやればいいだけ。
 だから何の問題も無い。何も特別な状況じゃないんだ。ただ解答を出すのが難しいだけの話だ。

 やるべきことは決まった。
 覚悟も決まった。

 さあ、ここからは全力全開フルドライブ――否、

 ここからは全力全知全能全開オーバードライブだ――!!


<Stinger Snipe>

 S2Uの先から発せられた、スティンガーレイよりも幾分弾速の劣る誘導操作弾は不規則な螺旋を描きながら男へと奔る。当然だがクロノには思い通りに弾道を操作するような技術は無い。だが、もともと操作性を重視された術式だけに目標へ当てられる確立は幾分か優れている。
 ――が、それでも弾道が安定しない。このままでは目標を撃ち抜くことなく、また明後日の方向へと飛んで消えていってしまう。
 しかし、それも承知の上だ。

「スナイプショット!」

 クロノの発した叫びキーワードに反応して弾速が急激に伸びる。急激な加速により弾道が完全に外れる前に強引に目標へと突き進む。

 どうせ外れるだろうとタカを括っていた男は驚きの表情を浮かべて咄嗟に回避行動に移る。やや遅れた行動だったが、それでも攻撃を避けるのには十分だった。加速した弾丸は男の横を掠めて、今まで男が居た場所を貫き森の奥へと飛んでいった。

 当るに越したことは無いが、仕方が無い。男を自分が吹き飛んできた軌道から外しただけでもとりあえずの目的は果たした。これで男は一歩たりとも油断できない場所へと追い込まれたのだ。
 そして、クロノは男が罠に掛かるのを指を加えて眺めている気も無い。

<Stinger Ray>

 貫通力と加速力に優れた射撃魔法を3発立て続けに放つ。

 男はさらにそれらに対して回避行動をとる。
 だが、それらはわざわざ避けられるまでも無く、木々を貫き、地面を穿ち、空の彼方へと消えていった。
 どうやらいくつかは当るかもしれないと言う警戒心を与えることが出来たようだ。右腕に走る痛みが増したがソレの代償としては中々悪くない。

 そしてようやく罠が発動した。
 男の真下から硬質で細身の木の幹が飛び出す。落とし穴、吊り天井と並ぶ罠の大御所だ。本来ならば先を尖らせてあるのだが、さすがにそこまでは凶悪に作られていないが、それでも十分な威力を持った一撃が男の腹へと叩き込まれた。
 ここに仕掛けられた罠は何も魔法だけではない。ああいった古典的な物も数多く仕掛けられているのをクロノはその身をもって知っている。もちろん、それら二つを複合させた罠もだ。

 男の腹に叩きつけられた木の幹、その空洞となった部分から第二の仕掛けとして魔力弾が撃ちだされた。
 男の身体は弾き飛ばされ、転がった地面が今度は爆発した。地雷だ。
 恐らくそれも致死量ではないのだろうし致命傷に至るものではないのだろうが、それでもこれがもしかしたら自分が引っ掛かっていたかも知れないと思うと、これが自分のために仕掛けられていた罠なのだと思い出すと背中に嫌な汗が流れる。
 いや、今は余計なことに気を取られるな。

 爆煙の中から男が猛然と飛び出してクロノへと迫る。
 恐らくこのままジリ貧になるよりは多少のリスクを背負ってもさっさと片付けたほうが得策だと判断したのだろう。
 一見短絡的で自棄に見える方法だが、今この場ではソレが一番冴えたやり方だ。

 クロノは近づけさせまいと再び射撃魔法を放とうとデバイスを構えたところで――慌ててその場から逃げるように飛びのいた。その横を何かが高速で飛んでいく。

 それは男の小指だった。

 自らの指を切り落とし、ソレをクロノの目に向かって投擲したのだ。恐らくあのまま魔法を使っていればクロノの目にはあの血塗れの指が突き刺さっていたのだろう。

 掻き消したはずの恐怖心がクロノの中に蘇る。
 自分の目を失っていたかもしれなということにではない、それもあるがそれ以上に、標的を殺すためならば自らの身体の一部をただの道具と割り切り利用できるその執念にだ。
 それは男が否定しているもののはずだが、クロノには確かにそれを感じてしまっていた。
 そしてそれは同時にクロノの集中力欠如を意味している。

「っ、しまった」

 避けた先、その場所では罠は無かった。しかし内に生じた恐怖心に知らず後退した足が罠を発動させてしまったのだ。
 発動した罠は環状の魔力となってすぐさまクロノの左腕を吊り上げるように拘束する。
 拘束魔法バインド
 さっき男が掛かったのが物理系の罠の大御所だとしたら、こちらは魔法系の罠の大御所だ。
 本来このタイプのバインド魔法は予めセットして置く事が出来るタイプのものではないが、世の中にはカード型やボール型、ペン型など様々な形をした魔法を保存しておく装置がある。ここら辺に仕掛けられた罠の大半はそれによるものだし、恐らくこれもその一つだろう。

 だが、今はそんな原理などどうでも良い。今大事なのは敵を目の前にして自分の動きが封じられてしまったと言うどうしようもなく最悪な展開だ。

 現に男は目の前にいるのだ。
 あのギョロリとした目でクロノを見据え、その貧弱そうな矮躯(と言っても、もちろんクロノよりは一回りも二回りも大きいが)を俊敏に動かし、右手の小指が在った所(右手を犠牲にしたと言うことは左利きだったのだろう)から血を滴らせながら、クロノへを必殺するべく襲い掛かる。

 アレの手に触れられるのはまずい。
 それは先程左腕の筋を切られたことで明白だ。
 そしてそんな理論的な理屈よりも、内から生じる御しがたい恐怖心でクロノはデバイスを振り回して男の接近を防ぐ。

 落ち着け落ち着け落ち着け無理だ落ち着け落ち着け無理無理無理む――甘ったれるなっ。

 我武者羅に振るわれるデバイスを鬱陶しげに片手で払おうとする男に、突然明確な攻撃意思を備えた一撃が突き出される。
 目指す先は喉。子供の力でもそこならばそれなりのダメージを期待できる。その上相手がこの近距離で動きを止めてくれれば、さすがに攻撃魔法も外しようがない。

 だが、その一撃すらも軽く防がれた。
 確かにクロノの忘我から一転した一撃は男の意表をつくことは出来た。それでも所詮は子供と大人。それも相手は殺し屋などという非現実的な職業に就いている非人間だ。まともじゃない。

 それでもこの至近距離で魔法を使えば――と、その前にクロノの鳩尾に激しい衝撃が襲う。

「ぐっ、べぇはっ」

 男の爪先が食い込む、本来ならば吹き飛んでいたかもしれない蹴りだったが拘束されているので僅かに身体が浮いて下がり蹲るに止まった。もっとも、拘束されている左手首には激しい痛みが走る。もしかしたら今ので折れたかもしれない。
 だが、そんな事を気にしている暇はない。目の前に移る光景は今まさに男がクロノへと手を振り下ろす姿――と、

「――――え?」

 上から縄で括り付けられて振り子運動を行うドデカイ丸太ん棒。
 その先端には見覚えがある字でこう彫られていた。

『その程度のバインド解くのに時間掛かりすぎ』

 ああ、そうか。今自分が掛かったバインドの罠と連動して、時限式で発動する罠なのか。一応の救済措置なのかアレが発動すると同時に対応できるようにバインドは消えるらしい。あれ? でも自分は今蹲っているからどっちにせよ逃げられないんじゃ……。いや、蹲っているから高さが足りないのか。このままだと頭の上を掠めるくらいで済みそうだ。でも、それだと今目の前にいる男は丸太に気付いてもいないわけで、このままじゃ避けられないんじゃ――――。

 ずごきゃがん。

 そんな決して耳にしていい種類の音じゃない音とともに、男はクロノ頭上を丸太と一緒に飛んでいった。その光景がとてもスローリーに見えたのは果たしてクロノの錯覚なのだろうか。

 男はそれほどの距離を飛ぶこともなく、地面に叩きつけられるように落下して丸太から逃れた。男にとっては幸いなことにそこには罠もなく、それ以上は何も起きなかった。
 その頭上を振り子運動により戻ってきた丸太が通り過ぎ、そのまま再びクロノの頭上も通り過ぎていった。

「…………うっ、ぐ、ぐぐぅぅうぅ」

 何とも気まずい沈黙を、倒れ付していた男のうめき声が破る。やはりアレで終わりにはならなかったようだ。さすがにここに来てそんな面白展開はありえないらしい。

 だが、これは千載一遇のチャンスだ。
 男はすぐには起きれそうにもない。ならば今のうちに一気に畳み掛ければ勝てるかもしれない。

「う、うぅぅぅぅ」

 それなのに身体が動いてくれない。
 今更ぶり返した恐怖心と疲労が頭と身体を分離させる。

「ううぅぅぅううううぅぅぅ」

 特に恐怖心は重症だ。止せ近づくな止めろと、頭にまで響いてくる。
 折角火がついた闘争心が、折角手に入れたチャンスが消えていく。

 男が肘を立てて上半身を起こし始める。
 今を逃せばチャンスはない。男を倒すチャンスもこの先を生き延びるチャンスも。

 それは嫌だ。
 自分はこんなところで終わりたくはない。

「うぅぅ、うあああああああぁぁぁぁああぁあああ」

 クロノを知る者が聞けば我が耳を疑うだろう。
 迷いを燃やし尽くすための雄叫びを上げてクロノは男へと駆け出す。
 罠のことを忘れた愚行の様にクロノは走る。
 男の反撃を恐れぬ無謀の様でクロノは翔る。

 そして―――。

 罠は発動しなかった。
 男は反撃しなかった。

 ――クロノは辿り着いた。

 愚行が英断となる。
 無謀が勇気となる。

「――、――――!」

 暴れる男の上に馬乗りになり、その胸元にS2Uを押し付ける。
 もう迷いはない。恐れもない。
 誰かを傷つける覚悟は付いた、、、、、、、、、、、、、

Sing S2U‘s heart out吼えろ! S2U!!”

<Blaze Cannon>

 ――――爆光。
 出力制御など端から考えていないありったけの魔力を込められた砲撃魔法が暴発する。
 膨大な熱量を持った淡い水色の輝きが激しく森を焼く。

 クロノの意識もまた――途絶した。





 今度は意識を失っていたのは少しだけと言うわけにはいかなかった。
 全身を襲う火傷と打ち身による激痛。体中の力が抜け切ったような虚脱感がクロノを包んでいる。
 そして、もうひとつ――。

 目の前に立つ殺し屋の男の影が倒れるクロノの上に覆いかぶさり、絶望で侵食する。

 男もまた満身創痍だった。
 身体のあちこちが焼け爛れ煙を吹いている。あのギョロ付いた目は右目だけ血走った目が覗いて、左目は焼きついたように閉ざされている。
 それでも男は両の足でしっかりと立っている。
 あの至近距離であの魔力量の砲撃を喰らったのにもかかわらず、だ。

 出力制御がなされていなかったブレイズキャノンはその大部分が拡散し、森と空を焼き払っていた。クロノと男がいまだに生き延びられているのはそういう理由だった。
 あれだけ膨大で派手な魔力だったからこそ、あの距離でありながらそのほとんどが拡散分散して男へのダメージとして届いていなかった。

 だが、クロノの方の命はどちらにせよ風前の灯だ。

「このクソ餓鬼」

 それはクロノが初めて聞いた自分の敵の声だった。
 この相手は自分と同じ言語をしゃべることができるんだ、と場違いな感心を抱いた。それくらいしか今のクロノに出来ることはない。
 間も無く男は、自分をこれ以上ないほどにあっさりと殺すだろう。
 もちろんクロノだって死にたくはないが、しかし既に抵抗できるだけの力は指先一つにすら宿っていない。

 男はクロノの首に手を回すと、例の切断魔法で気管を断ち切るでもなく、そのまま渾身の力で締め上げて吊り上げた。
 それは殺し屋の男らしからぬ行動だった。殺せるときには速やかに殺すのが定石だったはずの男は、既に抵抗の出来ない子供を嬲り殺そうとしている。

「――が、はぁ――ぁ――」
「殺してやる殺してやる殺してやるっ、殺した上で臓器をグチャグチャに切り刻んでやるっ」

 そこには既に何にも執着することの無かった物語フィクションの殺し屋の姿は無く、ただその目に殺意と憎悪と敵意を滲ませた人殺しの男が居るだけだった。

 クロノはその目を睨み付ける。実際には目は酸欠で虚ろになり虚空を見やるだけだが、それでも責めての抵抗にと心構えの上でクロノは最後まで男を睨み付ける。

 滲む視界。薄れる意識。
 その中でクロノは睨み付ける男の顔がハッキリと見えた。

 驚愕に歪むその顔が――。

「がっ、ばはっ」

 クロノの横を掠めるように通り過ぎる閃光は、精密に男の顔面、両肩、両足を打ち叩いた。
 突然の攻撃になす術も無く吹き飛ぶ男。クロノもまたその反動で男の手の中から弾け飛ぶが、男が地面に激しく叩きつけられたのとは対照的に、クロノの身体は地面に激突する前に優しく抱きとめられていた。
 それはとても安心感が得られる、慣れ親しんだ心地よさだった。

「…………ロッテ?」
「よお、クロスケー。 ずいぶんと派手にやられたじゃないか」

 そこには陽気な笑顔を浮かべる師の顔があった。

「まあ、色々と言いたい事はあるけど……とりあえず良く頑張ったよ。 あとはあたし達に任せてクロスケは治療してもらいながらゆっくり休んでな」

 そう言うとロッテはクロノをポーイっと放り投げる。
 その行動にクロノのほうも、もう少し丁寧に扱えとか色々と言いたかったが、今はそんな体力も気力も残っていなかった。
 そして放り投げられたクロノはまた別の人物に優しく抱きとめられた。

「アリア?」
「心配したわよ、クロノ。 家にはいないし念話は通じないし」

 眉根を八の字にしている珍しい表情のもう一人の師の顔を見上げる。
 アリアによる治療魔法が麻痺していた痛覚も呼び戻し、その痛みにクロノは僅かに顔をしかめ身体を震わせる。

「本当に派手にやられたわね。 これは治療のしがいがあるわ」
「アリア、クロノのほうは任せても良いかい?」
「ええ。 そっちは不本意だけどあなたに任せるわ。 そもそも最初にあんたが取り逃したのにも責任があるんだからね」
「オーケー、可愛い愛弟子をあたし達の代わりに鍛えてくれたこいつには、あたしからたっぷりと礼をしておいてあげるよ」

 そう言うロッテの表情はクロノからは伺えない。
 ただ、その尻尾がゆらりゆらりと、ゆっくり左右に振られているのだけはハッキリと見て取れた。

 男はロッテを畏怖の篭った目で睨み付けている。
 やがてその重い口を開き、鉄錆のような声で言う。

「何故、だ?」
「んー? 何故? 何故って何がだい? 質問するときはちゃーんとその要点を言わないと相手に通じないよ」

 ロッテは相手を馬鹿にしきった調子で答える。
 基本的にお気楽な性格をしたロッテだが、こういう対応は実は珍しい。それが今の彼女のうちにある感情を物語っている。
 男はそんなロッテに激昂こそしないものも、憎々しげに睨み付け歯を噛み締める。

「ふーん、まあいいや。 適当にこっちの推測で答えさせてもらうよ。 まずは『何故自分が殺し屋だと分かったか』って言う質問なら簡単だよ。 地道な努力の結果だね。 あんたがどれだけ上手く立ち回ってきたかは知らないけど、そんな物語フィクションじゃないんだからどうしたって証拠や足取りは残るもんさ。 その残された僅かな痕跡からあんたに辿り着いたってわけ。 これが現実リアルな解答だよ。 どう? 納得したかな?」

 それは何の不思議も無い、疑問を挟む余地すらない、何の意外性も劇的展開すらない実につまらなく、それ故に真実しか混じっていない解答だった。

「さて、もう一つ疑問に思っているだろう可能性がある質問『何故、ここが分かったのか』についてお答えしようか。 まあ、これに関してはわざわざ答えるまでも無いと思うけどね。 良く周りを見てみなよ。 これだけ派手に暴れればいくらあんたが念話妨害、探知魔法妨害のためのマジックアイテムをばら撒こうと簡単にばれるに決まってるじゃん」

 それは今度こそ本当に男を馬鹿にしきった、それでいて何かを誇るような答えだった。

 だが男にはそんな事はどうでも良かった。
 ロッテの答えは男にとってとてもではないが納得できるものでも受け入れられるものでもない。それでも理解は出来てしまう。 なによりも自分の迂闊さを。
 しかも最後にはあんな子供に動揺して、こんな偶然の結果で身を滅ぼすなんて……。

「ああ、もしかして、あんたはクロスケがあの馬鹿みたいに魔力を込めた砲撃魔法を撃ったのも、それにあたし達が気が付いたのもただの偶然とでも思ってる? 自分よりも明らかに格上の敵と戦わなきゃいけなくなったときのもっとも適切な判断って何か分かる?」

 しかしロッテは男のそんな後悔の念すらも否定する。

「まあ、あんたみたいな独り身の寂しい奴に言っても分からないだろうけどさ、答えは『自分よりも、なるべくなら相手よりも強い仲間に救援を求める』だよ。 自分ひとりで何もかもやろうなんていうのはただの傲慢なんだよ。 そんな慢心を持ってちゃいずれ身を滅ぼすだけさ、ちょうど今のあんたみたいにね。 ま、ようするにあんたは完全にクロスケに嵌められたのさ」

 勝ち誇るように言うロッテを無視して男は一心にクロノを睨み付ける。
 やはり自分の最初の直感は間違いではなかったのだと、あれはやはり自分を破滅させるものだったのだと。

「さあ、これで疑問は解決しろ。 それじゃあうちの愛弟子をあたしらの代わりに鍛えてくれた例をたっぷりとしてあげるよ。 遠慮せずにあたしらの気持ちを受け取ってくれ」

 ロッテが言い終わらないうちに男は行動に移る。
 確かに追い込まれてはいるが、男とてこのまま大人しくお縄に付くつもりは無い。今この場にいる3人を殺害した後に逃走することさえ出来れば、まだしばらくは逃げ続けられる。
 男はまず手前にいるロッテの顔面を右手で殴りかかる。しかしこれはフェイントで本命は腹を――その中に詰まっている腸を狙った左手による一撃。

 ――ゴキャ。

   そんな鈍い音が男の鼓膜を、身体を震わせる。

「――あ、あ? ――――!」

 捻じ曲がった右腕。これは男も最初からある程度は想定していた被害だ。
 潰れた左手。女の拳が突き刺さり既に使い物にならなくなったソレからは耐え難い激痛が走る。

 ああ、そうだった。いくら魔法を研ぎ澄ませようと、いくら体術を鍛錬しようとも、自分は本来は殺しが専門だったのだ。
 だから狩りなんて専門外が上手くいくわけが無く、ましてや戦闘などもってのほかだ。そんなものをしなくてはならない時点で既に負けている。
 何故そんな当たり前のことを忘却していたのだ。

「抵抗の意思ありと見て、確保対象を無力化しまーす。 いやー、残念だよー。 大人しく捕まってくれればこっちも手荒な真似をしないで済んだんだけどなあ。 ホントに残念残念」
「そうね、でも仕方ないわ。 相手に抵抗する意思がある以上、こっちも相応の防衛手段を取らないと危険なんだから」
「だよねー。 平和的に解決したかったのに残念だ」

 その会話を聞きながら既に男は抵抗の意思も、投降の意思も捨てていた。
 窮鼠は猫を噛むことなど出来やしない。噛み付ける鼠がいたらそんなのは本当の窮鼠じゃない。
 本当に追い詰められた鼠はただ猫のなされるままにいたぶられるのを待つだけだ。

 まずは膝を踏み砕かれた。
 次いで崩れ落ちる体を無理矢理にレバーに入るボディーブローで持ち上げられる。息が詰まる。鈍い痛みがゆっくりと体を犯す。
 浮いたところを蹴りによって肩の骨を砕かれる。元々使用不可能だった腕はこれで完全に使い物にならなくなった。
 吹き飛びそうになるところを男がクロノにそうやったように首を掴むことで防ぐ。頬骨を拳で砕かれる。ついでに歯も何本か折れた。
 圧迫感の消えた喉元に手刀が突き刺さる。激痛と息が止まるのを引き換えに薄れ掛けた意識がまた戻ってくる。痛い痛いイタイイタイ。
 続いて胸部に衝撃。左右による弐連打。最初の一撃で心臓が止まり、二撃目で止まった心臓が無理矢理に動かされる。当然のように肋骨は砕けた。

 ああ、なんていう無駄の多さだ。
 人を殺すためにも無力化させるためにもこれほどに無駄の多い動作はない。
 だが、相手を徹底的に嬲るにはなんて適した手順。

 そして男が最後に見たのは、爪を研ぎ澄ますように指で鉤爪の形を取った手を大きく振りかぶる魔獣の姿。
 どうやら、猫は鼠を甚振るのに飽きたようだ。



 圧倒的だった。
 クロノはロッテが男を殴殺(本当に殺しては居ないだろうけど)するのを瞬きするのも忘れて見入っていた。
 いつも自分をからかい、私生活ではだらしなく、時折自分より精神年齢が幼いんじゃないのかと疑いすら持ってしまう師の知らない一面。それに驚いてしまっている自分はやはりまだまだ子供なのだろうと思う。

 その姿はとても恐ろしく、とても力強かった。

「どうだ、クロスケ。 お前の先生は強いだろー。 お前をいじめて泣かしてた奴なんてあたしに掛かればチョチョイのチョイさ」

 うるさい。いじめられても居ないし、ましてや泣いちゃいない。

 ニヤニヤと笑う師にそう文句を言いたかった。

 だけど…………。

「まあ、クロノも頑張ったよ。 子供があんなおっかないのを相手にしたんだからね、泣いたって仕方ない」

 だから、泣いてないって言ってるだろ。

 自分を抱きかかえるもう一人の師にもそう言ってやりたかった。

 だけど……それなのに……ちくしょう、何だって今更っ。


 そしてクロノはようやく子供のように泣き喚いた。



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