ミッドチルダ市街 時刻PM9:47


 男が歩いている。
 こんな表現をするとその男一人だけが寂しい路地を歩いているように思われるが、周りにはその男の外にも大勢の男が居るし、もちろん女だって居る。ここは特に寂れた路地でもなくオフィス街にある大きな通りでその客層を狙った店もそれなりに出ているのでどちらかと言えば人通りが多い。もちろん本格的繁華街などに比べれば寂しいと言えるが、それは比較対象としてあまり適切ではあるまい。

 とにかく、そんな大勢の人の中をその他大勢と同じように男が歩いている。別に取り立てて特徴のある男ではない。他の人に比べて容姿が優れているわけでも醜いわけでもなく、実にありきたりで一般的なサラリーマンと言った感じだ。
 ただ、もし、それでも何かを挙げるとすれば、それはその男が一際憔悴していることだろう。
 仕事が終わって疲労しているのではない。それなら他にも大勢居る。その他大勢が全てそうだと言っても過言ではない。
 アルコールを摂取したわけでもないのに足元は覚束ない。視線は彷徨う元気すらなく、ただ虚空を焦点の会わない目で眺めている。極度の精神的重圧が肉体までをも不調にしていしまった様子だ。
 そんな様子で人ごみを歩けば当然のように人に幾度とぶつかっている。ほとんどは気を止めずにそのまま歩き去り、中には不快を露に、あるいは怪訝そうに男を見るが、それでもやはり何も言わずにそのまま歩き去る。
 当たり前だろう。やはり男のそれは取り立てるほど珍しいものでもないのだ。興味が沸くようなものでもないし、関心を引かれるものでもなく、ましてや気配りをするほどのものでもない。

 と、再び男は向かいから来た人にぶつかる。
 今度は少し強めだったのか、その憔悴しきった顔に僅かに苦悶の表情を浮かべて倒れた。
 周りの人たちもさすがにこれには少なかれ驚きの表情を浮かべるが、それだけだ。僅かな間だけ止まった人の流れは、しかしすぐにその動きを取り戻す。変化と言えば川の流れが途中にある岩の周りを流れるように倒れた男を避けているくらいなものだ。

 倒れた男がまったく、瞬きすらもしない事に異変を覚えた人たちがざわめき出すのは男が倒れてからしばらくしてからのことで、それが悲鳴と怒号を含めた騒ぎになるのは更に後のことだ。
 その間、男の焦点の合わない濁った目は雑踏の流れとビルの間に覗ける夜空を写していた。ただし、それはただ写すだけで、その目は二度と何かを見ることは無い。
 もちろん、あの時男にぶつかった相手の姿も既にどこにもなかった。



魔法少女リリカルなのは外伝
   「Reckless Blaze」




翌日
ミッドチルダ郊外 時刻AM10:23


 高度に発展したイメージのあるミッドチルダだが、人口密度そのものはあまり高いとは言えないこの世界は他の魔法先進世界、、、、、、に比べて多くの自然が残っている。人の手が入っていない郊外は特に森や草原が数多く存在し、それを活かしたキャンプ場や公園もそれなりの数がある。
 そしてもちろん、それと同じくらいに人が近寄らないような深い森や草原も存在している。そう、中でドンパチをやっても問題なくらいの広さの結界が張られても騒ぎ立てられないくらいのものは。

 結界の中、鬱葱と生える木々の陰に、よぉく目を凝らして見ないと分からないように何かが、いや僅かに身じろいでいることから何者かが隠れている。決して大きいとは言えないその影は見事に自分の姿を隠すことに成功していると言えるだろう。
 
「――っはぁ、はぁ――、ふぅ――」

 影は乱れた息を必死で整えようとしているようだ。乱れた息を整える呼吸法と言う技術は幾つか存在し、それを使えば動物が自然で行えるそれもどうにか人間も真似事くらいは出来る。しかしこの影にはその本能も技術も無いのだろう。整えようと焦れば焦るほどその息は乱れて荒くなり、時にはつかえてしまう。
 痛くなるほどに、早く自分の役割を果たさせろと訴える肺に、どうにか応えようとしても中々巧くいかない。焦燥と緊張がますます自分の意思が肉体に与える命令を阻害する。

「かぁ――はぁ、ふはぁ――、――!? くっ」

 息を整えていた影は、何を感じたのかビクリと体を震わせると、息を整えることを放棄して無様としか言いようが無いていで木の陰から飛び出す。
 その直後、影が今まで蹲っていた場所に別の影が猛然とした勢いで現れる。その影は先程の影がジッとしていることで影になっていたのに対し、あまりの俊敏さに影のようにしか見えないと言うまったくの正反対な性質を持った影だった。
 後から現れた影は影のままに、すぐさま逃れた影を追う。やはりその姿は影としてでしか捉えることの出来ない素早い動きだった。

「っ、くっ」
<Stinger Ray>

 影――否、既にその姿を現したそれはまだ幼い少年だ。
 少年はその小さな体には不釣合いな長さの無骨な黒い棒を迫りくる影へと突きつける。
 途端、棒から発せられる素っ気無い機会音。そしてそれよりも愛想の無さそうな、淡い水色の閃光が迫りくる影へと奔る。
 それは間違いなく射撃型攻撃魔法の光だ。ならば、その少年が手に持つものは魔導師のサポートのために作られた《魔法の杖》デバイスであり、当然それを手にする幼き少年は魔導師だと言うことを意味する。

 少年に迫る影は高速で襲い来る閃光に反応できないのか、避けようとする動作もとらずにそのまま一直線に少年に向かって疾走はしる。このままならば、影は閃光に撃ち抜かれることは必至だ。
 ――が、

「く、くうぅぅうぅぅ」
「…………」

 少年の呻き声と共に閃光は突如震え、歪み、捻じ曲がり、最後には跳ねるようにその軌道を変えて飛んでいく。
 当然、影は撃ち抜かれることなく少年の眼前に迫り――。

「がっ、べっ」

 下から襲った顎を突き上げる衝撃に少年は一瞬その意識を飛ばされた。
 もう一度意識が戻ったときは自分の体が空を舞っている事にぼんやりとだが気が付く。その視界には見事に晴れ渡った空とぎらつく太陽、そして自分が先程撃った射撃魔法が弾けるように解けるように消えていくのを捕らえた。
 それを見届けたながら、少年はすぐさま次に展開すべき魔法の術式を構成する。
 今度の魔法は攻撃用の魔法ではない。今の自分の視界から考えるにかなりの高さまで打ち上げられたことが推測できる。そしてこのまま落下して地面に打ち付けられれば決して軽傷で済むような高さでもないと言うことも想像できる。ならば飛行魔法でも展開して落下を阻止、それが間に合わなかったとしてもせめて勢いを殺すくらいの対処はしなければならない。
 術式構築。
 魔力素を取り込んだリンカーコアから魔力供給。
 魔法展開。
 その一連の動作で少年と地面の間に力場が発生する。
 既に落下を始めていた少年の体はその力場によって地上からの一方的な抱擁を避けることが出来た…………のはほんの僅かの間だった。
 術式の構成に不備があったのか、それとも魔力供給に手違いがあったのか、展開されたはずの力場はあっさりと解けて、少年の体を再び地上へと落とした。
 多少なりとも勢いを殺せたと言っても所詮は多少だ。このまま落下すれば結果はあまり変わらないものとなるのは疑いようが無い。
 慌てて術式を再構成、魔力供給、魔法展開の流れを行う。
 だが、先程失敗したものが慌てて冷静さを失った状態で成功するはずも無い。事態はより深刻な方向へとすっ飛んでいった。
 そう、文字通りすっ飛んだのだ。…………少年の体が。
 展開された魔法は少年を支えるどころか、戦闘機を打ち出すカタパルトの如き勢いで少年の体をあらぬ方向へと弾き飛ばしてしまったのだ。
 突如の衝撃と掛かる重圧で今度こそ少年は本当にその意識を手放した。
 僅かにどこからか聞きなれたダレカの罵声が聞こえた気がした。





 少年が次に目を覚ましたのは自分の家のベッドの中だった。

「――――うっ、っぅう」

 身を起こそうとしたと途端に頭がぐわんぐわんと揺れる痛みに顔をしかめる。
 少年はもちろん二日酔いなどと言うものを経験したことは無いが、もしかしたらそれはこういうものなのかもしれないと漠然と思う。
 その真偽のほどが確かめられるのはもう少し――彼が問題児ばかりの部下に頭を悩ませて、友人と自棄酒を煽るころに分かることになる。

「よーやく目を覚ましたか、クロスケ」
「リーゼロッテ?」

 これまた後に聞くだけで頭が痛くなる声に、少年――クロノ・ハラオウンはようやく意識を失う前に起きたことを思い出した。
 浮遊魔法の制御の失敗。
 おそらく浮力にまわす魔力量の調整が巧くいかず、膨大な魔力によって術式に正直に従った魔法はクロノを天高く打ち上げてしまったのだ。
 浮遊魔法はそれほど難度の高いものでもないのだが、クロノが魔法の修行を始めて半年。いまだにろくに――ハッキリと言えばまったく扱えずにいた。

「そうか、またやったのか僕は」
「『またやったのか』じゃないよ。 あたしが抱えてやらなきゃ、あんた危うく木に頭ぶつけて首をポッキリやるところだったんだぞ」
「それは、すまなかったな」

 どうやら自分の知らぬ間に、自分のミスで危うく死ぬところだったらしい。この場合は果たして事故になるのか自殺になるのかなどとあまり関係の無い疑問が頭に浮かぶ。
 いや、多分それは自分のミスについて考えないようにする逃避なのだろう。そのことに気が付いて更に自己嫌悪に陥ってしまう。
 それは大して情けないものではなく、ごくごく自然の心の動きなのだがそれを受け入れられるほどクロノは年相応の子供にもなりきれず、かと言って大人のように妥協することも出来ないのだ。
 少年が不器用なのは何も技術面だけではないようだ。

「失敗は浮遊魔法だけじゃないわよ。スティンガーレイだって制御を失敗したでしょ。指先と腕が裂けてたのに気が付かなかった?」
「リーゼアリア」

 もう一人の言葉に制御に失敗したとき腕に走った痛みを思い出した。もっともそのときには何もかもが必死だったので(ああ、またいい訳だ)まったく気が付かなかったのだが。
 だがこれも驚くようなことでもない。今のところ攻撃魔法を使えば六割の確立で制御に失敗してそのしっぺ返しを受けているのだから、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。例え落ち込むことであってもだ。
 今はその腕の痛みが無いことを考えると、どうやら彼女が治癒してくれたようだ。その事実がより一層情けない気分にしてくれる。もちろん感謝はしているがそれとこれとは話が別なのだ。

 今更だが、この二人はクロノの師匠というべき人物だ。
 先に声をかけてきた、髪の短いほうの女性がリーゼロッテ。クロノの格闘戦においてを鍛えてくれている師だ。先程クロノを空高く打ち上げてくれたのも、この人物というわけだ。
 格闘戦と言っても、何も相手と素手で殴りあう技術だけを教えてくれるわけではない。武器を使用した格闘方法。武器を持った相手との格闘方法。魔法で遠距離から攻撃してくる敵との格闘方法。多数の敵と相対したときの格闘方法。敵から離脱するときの格闘方法…………。その他もろもろのありとあらゆる状況を想定した格闘方法を叩き込まれるのだ。
 今挙げた例の中だけでも格闘とは言い難いものが含まれているので、これはどちらかと言えば『あらゆる局面における体の動かし方』と言ったほうが良いのかもしれない。
 そしてもう一人、あとから声をかけてきた髪の長い女性はリーゼロッテ。クロノの魔法の方面における師だ。
 こちらは魔法の術式構成、魔力制御、及びその効率的な運搬法を教えてくれる。
 そしてこの二人に実戦における相互の利用法、判断力、決断力、勝負の勘といった諸々を実戦形式の訓練で叩き込まれる。これらは自分で身に着けるしかない以上、誰かに教えてもらえるものと言うわけではなく、学び取っていくしかない。
 これがまた容赦が無く、身体的にも精神的にもクロノはボロボロに凹まされている。そして今回も見事に叩きのめされてしまったと言うわけだ。

「ほんっとに成長しないよね、あんたは。 なんつうかここまで才能無いのも逆に才能と言えるかもしれないよ。 折角なんだから大事にしたら?」
「そうねえ、このままだと何だか私たちが弱い者イジメしてるみたいだし」
「好き勝手言ってくれるな」

 苦々しく呻くが、残念ながら自分に才能が無いのも弱者であることも自覚しているので否定することも出来ない。おまけに彼女たちには悪意は無く、むしろ善意…………は無いかもしれないが、少なくとも好意を持っての言動なのだ。
 彼女たち双子は猫を素対にして作られただけあり、どうにも好きなものをとことん弄り倒す傾向にあるようだ。おかげでクロノはこの半年で色々なトラウマを持つ羽目になった。
 ロッテにフィジカルを、アリアにマジカルを、二人によってメンタルを鍛え上げられていると言うわけだ。
 まさに至れり尽くせりの修行と言える…………わけがないか。

「さあて、クロスケが目を覚ましたことだし、そろそろ行きますか」
「そうね。 クロノ、今日の訓練はお終いだからもう少し休んでなさい」
「ちょ、ちょっと待って。 まだ時間はあるはずだろ、この程度のダメージならいつものことなんだから問題は無いはずだぞ」

 なんだか自分で凹むようなことを言ったような気がしたが、この際無視しておく。
 そんなクロノの言葉に二人は困った顔で答える。

「そうじゃないのよ、クロノ。 さっき本局から要請があってね、これからお仕事なのよ」
「本局からの?」
「そ、何でもこのミッドチルダに物騒な奴が紛れ込んだみたいでね。 そいつの確保に人手が足りないから協力しろってさ」
「物騒な奴?」

 物騒な奴と一言で言っても色々だ。その辺のチンピラだって物騒だと言えば物騒だろう。だが、時空管理局が追う、ましてやわざわざ臨時講師として扱われているリーゼ姉妹に協力を要請しなければならないような相手がただのチンピラのわけが無い。
 次元犯罪者――それもとびきりに性質の悪い。

「まさか、ロストロギア? それかそれを持ってる奴が」
「あー、違う違う。 そういうじゃなくて……まあ、厄介なのは変わりないんだけど……厄介さと物騒さの質が違うと言うか」
「珍しく歯切れが悪いな。 いったいどんな奴なんだ?」
「うーん、どんな奴って聞かれても……」

 機密事項で教えられないと言うことだろうか? それならば理解できる。自分のような子供に易々と管理局の仕事内容を教えていいものではない。
 だが、思い過ごしかもしれないが、ロッテはもっと別のことで言うのを渋っているように思える。クロノに対しての遠慮と言うべきか。
 それも妙な話だ。目の前の相手が自分に遠慮なんて言う現象を引き起こすなど、それこそ何らかの巨大次元災害の前触れとしか思えない。

「管理局から確保するように言われた人物は『殺し屋』よ」
「殺し屋?」

 アリアの答えにクロノは首をひねる。別に言われたその単語の意味が分からなかったわけではない。その単語は珍しいものではなく普通にありふれたものだ。色々な物語に英雄ヒーローとして悪役ニヒルとして活躍する、人を殺すことによって生計を立てている人種キャラクターだ。
 そう、それはあくまで物語フィクションの中の存在のはずだ。それが何故この現実リアルに出現するのだ。

「もしかして、僕をからかっているのか?」
「まあ、普通はそう思うわね」
「だから言いたくなかったんだよ」

 なるほど、そういうことらしい。
 確かに殺し屋が現実に居ますなんて、まともな神経をしていたら言いにくいに決まっている。

「だけど生憎本当なのよ。 まああくまで便宜的にそう呼んでいるって言うだけだけどね」
「でもそう違ってないと思うよ。 なにせ人に頼まれて人を殺してお金を貰ってるんだからね」

 それは確かにお話に出てくる殺し屋と寸分も変わらない。ロッテの話が真実ならばの話だが。
 彼女の言葉を信じていないわけではない。ただ、どうしても常識が信じることを阻害する。もし本当にそんな職業――職業と言って良いのだろうか――があったとして、本当に需要があるのだろうか。もしあるなばら、この世界はそんなにも――。

 ああ――そうか、ロッテが本当に言いよどんでいたのはその事を自分に教えたくはなかったからなのか。
 子供扱いされたことに不満が無いとは言わないが、事実自分が子供なのは嫌になるくらい分かっている。何せ実際にこんなにも自分はショックを受けているのだ。

 常識の欠落。
 世界への疑心暗鬼。

 ロッテの判断は正しいと認めざるを得ない。

「そんな暗い顔しなさんな、クロスケ。 こわーい殺し屋なんてあたし達がちょちょいっと退治してやるからさぁ」
「そ、こういうときのためにあたし達はいるんだから」

 そう言って二人はクロノに笑う。
 いつもと変わらない、ありきたりな笑み。
 それだけで救われた気になってしまう、自分の単純さにクロノは笑ってしまう。

「そんじゃあ、ちょっくら行って来るね」
「あたし達の帰りが遅くても自己鍛錬を怠っちゃ駄目よ」
「あ……」

 部屋から立ち去ろうとする二人を見て、クロノは言いようの無い不安感に襲われる。

「ま、まって……」

 だから思わず声を出してしまう。
 手を伸ばしてしまう。

「ん? どうした?」
「どうかしたの、クロノ」
「え、あ……いや……」

 クロノの呼び掛けに振り向いた二人に、クロノは言葉が詰まってしまう。
 元々言うべき言葉があったわけでなく、咄嗟に呼び止めてしまったと言うのもあるが、何より振り向いてくれた二人を見て、自分を襲った不安感が何だかを理解してしまったのだ。
 クロノが感じた不安。それは置いていかれて取り残されるのではないかと言う心細さ。孤独感から来たモノだ。
 それを理解して、自分が本当に子供だと言うことの恥ずかしさに染まってしまったのだ。
 だが、黙っているわけにも行かないので、必死に言うべき言葉を探し当てる。

「えっと、その……気をつけて」

 結局出てきたそんな言葉に、二人の師はきょとんとした顔になる。
 そしてすぐに、さっきのとは違う、不敵な笑みを返す。

「だーれに言ってんのさ、クロスケ。 あたし達はあんたの師匠だよ」
「このくらいの任務なんて事は無いわ。 自分の師匠を信頼しなさい」

 そういう二人の姿は、とっても癪だが、本当に頼もしく見えた。





 男は少し困っていた。

 仕事そのものはいつもと変わらずに問題なく終わった。しかし問題はその後にあった。
 時空管理局の動きが予想以上に早かったのだ。どうやら今回のターゲットとクライアントは随分と前から時空管理局に目をつけられていたようだ。


 クライアントはある企業の上層部の人間で、ターゲットはそこの魔導工学の研究室に所属する技術スタッフの一人だった。何故同じ企業に所属する者の殺害を依頼したかと言えば、それはいたって単純で邪魔になったからに他ならない。

 この企業は以前、大掛かりなあるプロジェクトをスタートした。クライアントはその時から上層部におり、クライアントはプロジェクトに参加した技術スタッフの一人だった。
 結論から言えばそのプロジェクトは失敗した。それもただの失敗ではない大失敗だ。
 そのときに使われた魔力炉が暴走し、大惨事を引き起こした。
 原因は明らかだった。魔力炉に使用されたエネルギーは兼ねてより危険視されていたのにも関わらず、上層部が強引にそのエネルギーを使っての起動実験を敢行させたのだ。
 こんな事が世間に露見すれば上層部の首が飛ぶだけではなく、企業そのものが消えてなくなるのは火を見るよりも明らかだった。しかしそれでもその企業は存続し、現在も運営し続けている。
 その企業の上層部は実に人間の集団心理を心得ていたと言えるだろう。人は明確な責めるべき悪役が居ればその悪役を徹底的に非難し、貶めれば満足するのだ。つまり、自分たちとは別にその民衆の意識を向けるための悪役を用意してやれば良い、と考えたのだ。

 そして当時プロジェクトの責任者であった人物がその生贄スケープゴートに選ばれた。
 それが功をなし、企業は生き延びることが出来た。プロジェクトには失敗したがエスケープには見事成功したのである。
 どこにでも、良くあるような話だ。実験の失敗で被った被害の規模を除けば特に珍しくもドラマ性も無いつまらない事件だ。ありふれた悲劇と喜劇。そんな下らない茶番劇で世間は納得した。

 しかし当局はそこまで単純ではない。いや、ある意味単純だからこそ疑念を持ち続けた。
 世間としては決着を見たこの事件を、事後処理の名目で管理局は色々と調べ始めた。当時のプロジェクト関係者や途中で抜けた者の捜索と聞き込み、資料の見直し等等だ。
 そして最近、ターゲットとなった男に行き着いた。男はその時から憔悴しきっていた。恐らくはあのプロジェクトの失敗と言う敗北感と、全てを一人の人物になすりつけて沈黙を保っていると言う罪悪感によるものだと思われる。特に後者においてはその責任者がその事故で最愛の子供を失っていることを考えれば、男の中でソレは日に日に育って重りを増していった。
 彼が当時のことを全て証言するのも時間の問題だと誰もが思った。
 もちろん、隠蔽工作をした上層部も、だ。

 上層部がそのような自体を歓迎してやるわけが無い。かと言って、金を掴ませあるいは出世をタテに口止めをするなどと言うのはもはや無理なのは明白だった。
 ならば残された手段は一つ。死人にクチナシだ。

 そして、彼の出番となったわけだ。

 男はクライアントとターゲットのそういった事情は知らない。推測できるだけの情報は持ってはいたが、興味が無かった。管理局が目を光らせていると言うのはそれなりに考慮するべき項目ではあったが、その他に関しては彼の仕事内容と関係の無い話なのだ。
 彼に必要な情報はターゲットを確実に殺せるタイミングと方法を導き出すためのものだけだ。そしてその必要な情報から彼は昨日、ターゲットに接触し、その心臓に穴を開けた。外傷は与えていない。直接心臓に魔法で穴を開けたのだ。
 別にそれが彼の常套手段というわけではない。彼は刃物を使ってでも殺すし、鈍器を使ってでも殺すし、銃器を使ってでも殺すし、拳を使ってでも殺すし、爆薬を使ってでも殺すし、毒薬を使ってでも殺すし、乗り物を使ってでも殺すし、人を使ってでも殺す。
 方法などどうでもいいのだ。要するに殺せればそれでいいのだから。

 彼は執着をしない人間なのだ。
 だから彼はクライアントやターゲットの事情にも興味が無いし、殺害方法にも拘りを持たない。
 執着すればそこから足元を掬われる。
 それが彼の持論……だったようだ。それすらも今の彼にはわからない。

 だから今の状況も、困りこそすれ焦りも憤りも不安も無い。
 どうせいくら探そうと管理局は彼へと辿り着くことも無い。証拠は一切残していないし、クライアントにまで行き着いたところで(実際クライアントは既に管理局に身柄を確保されたらしい。もっとも証拠不十分ですぐに釈放されるだろうが)、クライアントは彼のことを何も知らないのだ。
 ほとぼりが冷めるまでここに居ればい。次の依頼が来るまでここに居たっていいのだ。どこに居たって変わらない。定住地なんてものは当然のようにありはしないのだから。

 ――と、

「?」

 彼は――、

「…………」

 視線を――
    ――感じた。





  郊外の森 PM14:43


 公園もキャンプ場もないそこは滅多に人が寄り付かない場所だった。
 しかし最近になって賑やかな来訪者が三名ほど頻繁に訪れるようになった。それからと言うもの、森には悲鳴やら怒号やら、時には爆音や破砕音まで響き渡るような賑やかさとなった。
 そして今日も元気良く子供の悲鳴が木霊していた。

「ぐうぅうぅー、がっ、づっ、ぐべっ」

 愛想のない黒い防護服バリアジャケットに包まれたクロノは若手お笑い芸人も真っ青な勢いで地面を滑り幾度かバウンドした末、近くの木の幹にぶつかる事でようやくその動きを停止した。

「……………………」

 そしてそのまま停止し続ける。
 ぶつかった衝撃で揺れる木々のざわめきと、遠くで聞こえる鳥の鳴き声が妙に心地よく聞こえる。
 この光景さえ見なければ今日も森は平穏だ。

 やがて、ノロノロとクロノはようやくその体を引き起こした。その体にはあちこちに擦り傷と打撲の痕が見受けられる。折角精製したバリアジャケットもあまり意味を成していないようだ。
 どうにか立ち上がったものも、やはり勢い良くぶつかったせいか少しばかり足元がふらついて何とも頼りない足取りだ。

「く、そ……」

 その可愛らしい外見には似つかわしくない悪態をついて足を踏ん張る。
 一呼吸すると少年の足元に魔方陣の輝きが広がり始め、少年が構成した術式を現実世界において物理的効果を表し始める。
 だが、一見して美しい紋様と輝きを放つソレは見るものが見ればそこにあるほつれを容易に見出すことが出来るだろう。
 そしてそれは当然の結果を術者へともたらす。
 僅かに浮いた足元でほつれだした術式はその形を急激に失い、術者を再び地面へと下ろした。
 またもや失敗だ。
 だが先程よりもまだマシと言えよう。何せさっきはどこをどう間違ったのか、本来は僅かに宙に浮くだけのはずだった魔法はクロノを地面で卸しながら飛行し(この場合は『飛行』と言う言葉を用いて良いのか疑問だが)、冒頭のような結果に至ったのだ。

 もっとも、クロノ本人は失敗は失敗で変わりがないと考えているようだ。
 しかし失敗そのものは実はそれほど問題ではない。今までまったくというほど出来なかったものが突然出来るようになるなどというご都合主義など端から期待していない。そんなものに頼るようでは上達など望めない。
 失敗から学び、修練して失敗して、鍛錬を繰り返して失敗も繰り返す。やがて至るであろう成功へと辿り着くためでもない。そもそも失敗や成功の違いなど些細な問題なのだ。
 それら全てを含んでこその学習であり修練であり鍛錬なのだから。

 とは言え、だ。理屈の上ではソレが分からないでもないクロノだが、いくら同世代の子に比べてどこか達観した風のある少年だが――それでも彼は僅か五歳の少年という言葉すらも不釣合いな年齢の子供なのだ。
 その内には悔しさやら情けなさやらが渦巻いて今にも噴出しても不思議ではない。
 もっとも、一人で泣き喚いても馬鹿みたいだし、かと言って人前でソレをするなんて持っての他だというのが彼の気質なのでよっぽどのことがない限りそれは渦巻くに留まるだろう。

 リーゼたちが管理局の仕事で出かけた後、クロノもすぐにこの森にやってきた。
 休めとは言われたが、それほど疲弊したわけでも大怪我をしているわけでもないので、すぐにでも自主トレを行いたかったのだ。
 この森には普段は人が近づかないことを良いことに、リーゼ姉妹がクロノの修行を大義名分にして好き勝手に趣味が多大に混じった様々な仕掛けを施してあるテーマパークと化している。
 何が困るって一番困るのはそれが確かに修行の、特に一人での時に役に立つということだった。なんだかとっても納得しかねる事柄なのだ。
 だが納得できようができなかろうが、役に立つならば役に立ってもらう。彼には好き嫌いなど言える立場でもないし、またそんな余裕もない。
 だが、そんな余裕が果たして自分に与えられる日が来るのだろうかと、クロノは思う。

 自分がこのまま飛行魔法ひとつ出来ない未熟で終わるとは思っていないし、そのつもりもないが――それでも、それでもだ。例え全てを一人でこなせるような一人前になったところで、結局自分は未熟なままで余裕など見出せないのではないのか?

 それは最近、ふとクロノの中に過ぎる疑念だった。
 五歳の少年が抱くにはあまりにも老成しすぎた考えだが、このとき既に己の限界にぶち当たっていたクロノにしてはそれほど意外な疑念でもない。
 だが、ここで問題になるのはその考えがクロノ・ハラオウンという個人の根底を否定しかねない、そういう種類の疑念だということだ。

「何をいまさら……、いや何を今からだ。 まだ何も出来ない奴が出来た後のことを悩んでどうするんだよ。 そういうことは出来るようになってから悩めよ、未熟者の半人前が」

 自らをそういって叱咤すると、再び術式を組み立て始める。
 元より、まだ至ってもいない事に答えを見出せるほどに器用でないことは自分が一番良く理解している。
 今はただ自身を鍛え上げるだけ。先のことはそのときになったら悩めば良い。

 ――と、またクロノが不細工な術式を組み上げていると何かが草を踏み分ける音が聞こえた。
 フィジカルもマジカルもぜんぜん成長していないと言われ、自覚もしているクロノだが、リーゼ姉妹で鍛えられ始めてから、危険察知能力だけは飛躍的な成長を遂げている。
 その能力が放つ警鐘に従い、咄嗟に飛びのきながら手にしたデバイスを危険を感知した方向へと突きつける。

「――――え?」

 てっきり仕事を終えたリーゼ姉妹のどちらか、あるいはその両方がいたずら半分に襲ってきたのかと思っていたが、その視線とデバイスの先にはまったく予期しないものが立っていた。

 男だった。異様にギョロついた目に禿げ上がった頭のお陰で随分と老けて見えるが、良く見てみればその顔には気付きにくいものも、確かに若さがある。全体的には小柄な体躯であまり上部層には見えない。ハッキリ言えばひ弱な分類に分けられるだろう。
 だが、そんな特徴などよりもまず真っ先に目に付いたのはその体のあちこちから滲み出て、流れ落ち、白いシャツを赤く染めている血だった。
 その出血量と傷の数から、森を歩いていたら木の枝に引っかかって血が出ましたなどと言うレベルではない。なにか凶暴な獣にでも襲われたような、そんな傷だ。
 現に男は警戒と恐怖を滲ませて、そのギョロ付いた目を赤くしてクロノを検分するようにジロリジロリと観察している。

 それにハッキリとした不愉快さと不気味さを感じるのは当然だが、しかしなぜだか――。

 ――ドクン、と

 心臓がまでもが跳ね上がる程の――。


「魔導師、か」

 低く昏い感情の灯らない声で男はクロノに訊ねる。いや、訊ねると言うよりも確認に近い。

 その声に、より一層、嫌悪感より警戒感より――。

 ――純然たる危機感が膨れ上がる。

 そして、男がクロノに一歩近づく、その前に自らの内より響く警鐘に従い――、
 ――脇目も振らずに男に背を向けて走り出した。

 自分でも何故そんな行動に出たか分からない。
 だが、彼の中で今まで培われたモノが一刻も早くあの哀れにも血塗れな男から少しでも遠ざかるようにと脅迫的に訴えてきた。

 おかしな話だ。
 あれだけの怪我を負っているのだから、警戒感や恐怖心を抱いているのは何の不思議でもない。むしろその状態で落ち着き払っているほうがおかしいのだ。
 ならば自分がやるべきことは声をかけて、治療魔法――はいまだに使えないから、とりあえず出来る限りの応急処置でも施しながら事情を聞くのが真っ当な判断のはずだ。
 だが、現実では自分はそれらの理知的な判断を圧殺して、駆け出している。ただ純粋に逃げるためだけに。





 男はそのギョロっとした目で走り去る小さな背中をジッと見やる。
 男は自分の容姿が世間一般的に不気味で醜いものだと言うことを自覚している。そんな男が血塗れで目の前に現れれば普通の人間は近寄らずに避けるなりするのは当然だとも思う。それが子供ともなればなおさらだ。
 だが、今の子供は本当にそれが理由で逃げたのだろうか?

 気にしすぎ、なのかもしれない。今の自分は神経が過敏になっていることは否めない。
 そもそもこの森には逃げ込んできたのだ。
 あの時街中の人がまばらな道を歩いていたら、自分に注がれる視線を感じた。先も言ったがこんな要望だから人様から視線を向けられるのはある程度慣れている。もちろん普段そんなものは気にも留めていない。
 だが、あの時に自分が受けたのはそういった、嫌悪や忌避、侮蔑に侮辱を含んだ視線とは明らかに違う種類のモノだった。
 一番近いのは獲物を見つけた、弱肉強食のヒエラルキーにおいて上位に立つ者の視線。

 そんなものを気にする必要はない。警戒はするべきだろうが必要以上に気にしすぎれば逆に災いとなるだけだ。愚鈍な振りをしてやり過ごすのが一番良い。
 彼はそう思ったし、その思ったとおりに行動しようとした。
 だが、相手は彼の警戒や予防など何のお構いもなしに、彼の意図を台無しにしてしまうような無茶苦茶な人物だった。

 いきなりだ。
 いきなり、その相手はツカツカと彼に近寄ると、ほとんど予備動作なしの鋭い拳による一撃を彼の顔面へと放ったのだ。
 冗談の類ではないだろう。少なくとも冗談で済まされるような一撃ではない。当たれば顎の骨を容易に砕くだろう、そういう明確な攻撃だったのだ。おまけにその鋭さと速さは常人に避けられるものでも防げるものでもない。
 しかし男とて常人ではない。その一撃をどうにか避けながら指先に魔力を集中させて、昨日ターゲットにそうしたように相手の重要な内臓器官に穴を開けるなり切断するなりしようとした。

 そして相手はそんな自分を見て、ニヤリ、と笑って言った。

「ああ、やっぱりあんたで間違いないみたいだね」

 その言葉に男は愕然とした。
 自分の正体がばれた事もさることながら、そのあまりにも大雑把なやり方とそれを躊躇いなく実行できるだけの豪胆さ、そして先程のがあくまでこちらを計るために手加減した一撃だとするならば、彼我の間に広がる実力差に。


 そこからは悲惨だった。
 掛かる追っ手を巻きながらもその間に負った痛手は見ての通りの状態だ。特に最初に彼へと接近してきた猫を素体にしたと思われる使い魔は凶暴なことこの上なかった。あんなものを使い魔として飼っている魔導師の気が知れない。
 とにかく、どうにか追っ手を撒いた彼は一度人気のないところに逃げ込んで、傷を手当てしながら自分が人気のないところに逃げた痕跡を残しつつ、もう一度人込みに紛れて追っ手をやり過ごそうと考えてこの森に来たわけだ。

 そんな経緯でここに至り、魔導師の子供を見れば変に過敏になってしまうのは仕方ないのだろうとも思うのだが、どうにも彼には引っかかった。
 追う必要はないはずだ。このままあの子供を逃がして、子供が証言すれば自分がこの森に潜伏していることはより一層の真実味を持って伝わるだろう。そうすれば、管理局がこの森を捜索している間に再び街の中に舞い戻り潜伏するのにも多少の余裕が出来る。
 何の問題もないはずだ。このままあの子供を逃しても理論的には彼に害悪を及ぼす要因はないはずなのだ。顔を見られた事だって、既に管理局員に見られている以上、この顔とはおさらばする予定だ。撹乱のためには放っておいたほうが利があるくらいなのだ。

 なのに何故自分はこうも不安になっている?
 何故自分はこうも焦燥に駆られている?
 あんな自分の姿を見ただけで逃げ出すような臆病者の子供に。
 あれは自分の姿を見ただけで逃げることを選択出来る魔導師だ。

 そうだ、考えてみれば殺したほうが相手をかく乱できるのではないか。捜索しに来たものがあの子供の死体を発見すれば自分が口封じに殺したと思い、やはりこの森に逃げ込んだと思うはずだ。
 逆にあの子供を殺さずに見逃せばその事を怪しみ、下手をすれば森に逃げ込んだのはフェイントだと言うことが露見する恐れもある。

 アレを生かしておけばいずれ自分にとって大きな脅威となる、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 だから、だったら――。

「殺す」

 そう吐き捨てて男は、クロノが逃げていった方向へと駆け出した。

 その言葉は彼が記憶にある中では初めて自発的に吐き出した言葉だった。








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