人は誰しも夢を見る。
夢の形は人それぞれで
放つ輝きも一つ一つ違っている。
しかし、そのどれもが不確かな形で、
儚い輝きを放っている。
それは今にも弾けて消えてしまいそうだ。
それでも人は夢に手を伸ばし、掴もうとする。
その輝きへと歩み続ける。
交わした確かな約束を胸に
夢を掴んだら、また会おう
旅立ち
「まあ、こんなもんかな」
左耳にピアスをした少年は、すっかり片付けられた部屋を見回し少し大きめのボストンバッグも担ぐ。動きやすい服装と片付けられた部屋にその荷物から、彼がこれから長くこの部屋を空けることになるのは用意に想像が出来る。
今まで過ごしてきた部屋を見ていると、担いだバッグの重さがズッシリと乗っかってくる。その重みが今までここで過ごした日々の重さだとは思わないが、それでも色々と思うところがあるのも事実。
なんにせよ、この部屋もしばらくは見納めだ。
「想い出と言える思い出がある訳じゃないけど、こうなると少し感慨深いよな」
らいくない、そう思い苦笑が漏れる。
自分はそういう感傷とは自他共に認める無縁な人間だと思っていたが、これは少し評価を改めるべきかもしれない。
その感傷のためだろうか、自然と指がピアスに触れた。
すでにこの癖の意味は失われたが、それでも直る気配はない。癖なんてそんなものかもしれない。元々、理由なんて最近まで完全に忘却していたのだ。
しばらくはそのまま、じっと部屋を見る。
片付けたといっても、大きな家具などはそのままだ。ただ今まであった生活臭が薄くなっている。
それほど大きな変わりがあるわけでもないのに、自分の部屋に違和感を感じてしまう。今度この部屋に戻ってくるころには、本当に他人の部屋のように感じてしまうんじゃないかと思うと、少し怖かった。
笑ってしまう。
今から旅立つというのに、もう帰ってきたときの心配なんかしている自分があまりにも可笑しかった。
自分の弱い心。こんなので本当に旅の目的を達成できるのか不安が募る。
すぐさまその不安は振り払う。
元々、その心の弱さゆえの旅なのだ。ならばすでにこの時点で旅が始まっていると言える。
ピアスから指を離し、部屋に背を向ける。
十分にここでの風景は目に焼き付けた。
十分にここでの想い出は心に刻み込んだ。
ならばもう迷う必要はない。立ち止まっている必然もない。
ピアスの少年――藤堂尚也は歩き出した。
母親が玄関の前で立って待っていた。その表情は幾つモノ感情が混ざったものだった。その中から主に読み取れるのは喜びと悲しみという相反する感情だ。
そんな母に尚也も困ったように弱々しく微笑む。
「もう行くの?」
「うん。 こう言うのは早くしないと決心が鈍るから」
「そう、そうよね」
息子の言葉に俯いて微笑む。
巣立ち――。この言葉が適当かは分からないが、少なくとも母親の心境はそれを見る気分だ。
「ごめん、母さん。 急に勝手なこと言って」
「確かに急だったし、驚いたけど、止めちゃいけないと思ってね」
「ありがとう。 母さん」
決して仲が悪かったわけじゃない。だけど仲が良かったとも言えない。
藤堂家において、その仲そのものが希薄なものだった。
だけど一年と少し前。その日から少しずつ変わり始めていた。決して忘れることは無い、あの事件は良くも悪くも関わった者に大きな影響を与えた。
尚也もまた変わった。
それまでは全てが他人事で、何かに打ち込んだりすることはもちろん、やりたいことすら無かった。
全てが薄い膜の向こう側で、何もかもが自分とは関係ないことのように思えた。
自分には何も無いと思っていた。
多分、母にはそれが分かっていたのかもしれない。そして、それが何に起因するのかも。
でもそれは所詮は膜だ。あの事件のおかげで強引にあっせりと破られた。
そして、もう自分には何も無いなんて、そんなことは間違っても思えない。
「ごめんなさいね。 本当なら父さんも見送りにいるべきなんだろうけど」
「仕事じゃ仕方ないよ。 それに今回のことを認めてくれただけでも十分だよ」
昔から仕事で忙しく家を空けがちだった父親。そのことで一時は離婚するんではないかとも思われたが、幸いにもその仲は修復されつつある。
そうでもなければ尚也も今回の決断を実行に移さなかったろう。
自分の気持ちを理解してくれた。それが尚也にとってはそれだけで嬉しい事だった。
「それじゃあ、そろそろ行くよ。 寄りたい場所もあるから」
「友達のところ?」
「いや、友達とはもう卒業式の時に挨拶済ませたから」
それぞれの夢へと歩き出した友人たち。
そのときに交わした、確かな約束を思い浮かべた。
「そう、それじゃあ、体には気をつけてね」
「うん。 いってきます」
「いってらっしゃい」
互いに相手に微笑んで挨拶を交わす。それはここ何年も忘れていた儀式のような気がした。
尚也がこの街を出る前に最後に寄って行きたかった場所。それはこの街に唯一つある神社、アラヤ神社だ。
そこは神社に分類されているが、祭られているのは神道の神々ではなく、人の心の中に存在する神々を祭った社。そんな一般の社とは異なったこの神社を誰がいつ、何故造ったのかは一切不明だ。人々が気付いたときには既にそこに在り、神主や管理者がいない今でも当然のようにここに在る。
ただ無数の仮面が並べられたそこは不気味な雰囲気でもある。
だが尚也は知っている。この無数の仮面は他でもない自分たちを表しているのだと。自分は独りではなく、いくつもの自分がいることを。
だからこそ尚也は旅立つ前にここに来た。旅立つ前に挨拶をしておきたかったから。
「まあ、墓参りでも良かったんだけどさ」
自分以外誰もいないそこで――
「ここのほうがお前と話せると思っんだけどな。 和也」
もう一人の自分へ静かに話しかけた。
和也、それは今は亡き尚也の双子の兄の名前であり、尚也の中にある別の尚也が名乗った名前。
『久しぶりだな。 俺のこと、忘れていないよな。 尚也』
一年前の事件で顔合わせした時におまえはそう聞いた。
忘れていないつもりだった。だけど、実際は記憶の奥底へと封じ込め忘れ去っていた。
それについては本当に悪かったと思う。
『何かに必死になったりしない…いや、出来ないんじゃなかったのか?』
『おまえは怖いんだ。 俺の顔が恐ろしくてたまらないんだ。 だから目が離せないんだろう?』
その通りだったと思う。俺はあいつの顔が怖かった。また、自分がダレだったか見失いそうで。
だから、全てが他人事にしか思えなかったあの時の俺も、必死になっておまえを追いかけた。
『俺ではなく、おまえが生きているのはどうしてだ』
『俺に無かったチャンスをお前が得ても意味が無かったって事だな』
『俺と変われよ。 勝った方が続きを生きればいい』
『認めろよ。 おまえには生きているだけの意味がない』
まったく、散々へこむ事を言ってくれるよな。
おまえでなく俺が生きている理由は、やっぱり今でも分からない。 だけどその意味を無くすような真似は、もうしない。
『俺はただ…。 尚也、お前を殺したいだけなんだよ!』
『そうだ、俺は和也じゃない。 おまえが育てた、おまえへの悪意。 『藤堂尚也』、おまえなんだよ』
他の誰かでもなく、他の何かのせいにも出来ず、ずっと自分だけを憎み続けてきた『自分』。
他の誰でもなく、他の何にでもなく、ずっと自分自身に無関心だった『自分』。
そのどちらにもつけずに、中途半端に漂っていた『自分』。
『嫌だ。 頼む、止めてくれ!」
独り独りが違う『自分』だから、他の『自分』が残っていようと『自分』が消えるのは何よりも怖い。
俺だって消えたくは無い。俺は『尚也』であり『和也』ではない。
『俺に、乗っ取られるとか思わないのかよ』
だって、俺もおまえも『自分』だから。独り独りの『自分』が集まって、初めて一人の『自分』になれる。
『その言葉、忘れんなよ』
「うん、忘れないから。 これから先も」
そう、自分は独りじゃない。
あの事件をきっかけに出来た大切な仲間も居る。 それがとても誇らしい。
みんながそれぞれの夢を追いかけて、それぞれの道を歩んで行った。
そして、自分も。
「和也。 やっぱり俺は何故、何のために生きているのかは分からない」
それは何度も何人もの相手にされた質問。
ある者は悪意を持って。
ある者は純粋な疑問として。
ある者は自身が答えを見出せなかった故に。
そのたびに尚也は返すべき答えは見つからなかった。 考えもしなかったから。
あれから何度も自身に問いかけてもみた。 それでも見えてこない。 その答えは。
だけど、あの時と違って今なら返すべき言葉はある。
「それが分からないまま死にたくはない」
未だに見えぬ答え。
独りの男が見つけられず、他人に求めたもの。
「それを探し出し、掴むために俺は生きる」
それが生き残った、ここにいる『自分』の義務だと思うから。
「それに気づけたのも、おまえのお陰だな。 園村」
あの事件で共に戦った仲間の一人の名前を口に出す。
園村麻希。藤堂尚也の幼馴染で昔から体が弱く、病院通いを続けていた少女。
そんな彼女が生み出した理想の自分。明るく元気でいつも前向きな、そして何より自分の事が好きで居られる『園村麻希』。
誰もが少なからず望む理想の姿。それが麻希は人一倍強かった。
その呪いにも近い憧憬と情景によって生まれたもう一人の『園村麻希』。
園村の姿は正しく麻希にとっての理想の姿だった。
明るく元気で、誰にでも優しい。
ともすれば自分の影に怯えて暗くなる自分たちを彼女の前向きさが救ってくれた。
尚也もまた、自分の事を嫌いになりたくない、自分の事を好きでいたいという園村の姿に救われた。
そんな自分が偶像だと知り、園村は絶望に陥いった。
それはそうだろう。
自分は紛い物だと、幻だと、存在しないんだと、そんな完全な否定を受け入れられる程、人は強くない。割り切れるものでもない。
尚也にはその気持ちは良く分かる。
自身もまた、かつて『尚也』という存在を否定したから。
それでも、彼女は立ち直り前へ進もうとした。
それは否定を受け入れたんじゃない。
自分の存在を受け入れたんだ。
例え自分が紛い物で幻で存在しない者だとしても――。
自分が持つこの気持ちだけは、紛い物でも幻でも無く、確かなものとして存在しているのだと。
その結果、自分が消えてしまうと知っていても――消えるのではなく元に戻るのだと。
強いと思った。
尚也が目を背け続けてきた事を正面から受け入れた彼女。
本当に強くて、でもやっぱり小さな女の子だった。
小さな手は冷たく震えていた。
涙を流す姿に思わず抱き寄せた体は細く崩れてしまいそうだった。
そんな彼女の強さに――。
そんな彼女の弱さに――。
いつしか尚也は心魅かれていた。
「だから、お前が消えるって知ったときは、本当は俺だって泣きたかったよ」
だけど、消えてしまう怖さに耐えている女の子の前で泣くわけにはいかなかった。尚也にだってそれくらいの意地と見栄はある。
――まあ、最後の最後には泣いてしまったわけだけど。
締まらないし情けない。物凄く格好悪い。
園村の決意を邪魔したくないのに、汚してしまったような気がした。
それでも園村は尚也に微笑んでくれた。
尚也の言葉にありがとうと――。
自分のことを忘れないでくれと言ってくれた。
その後の事は、今でも思い出すとかなり恥ずかしい。
麻希も意識を取り戻してからは治療に専念し、学校に通えるようになり、この度めでたく尚也たちと共に卒業できる事が出来た。
今の麻希からは子供のころのような活発さが戻ってきている。彼女自身が望んだように。
「変わったのはみんな同じか……。 みんな自分の夢に向かって歩き始めているよ」
夢。
それに向かって歩き続けたところで、手を伸ばせば弾けて消えてしまう。ならば最初から夢など求めなければ良い。そうすればいつまでも夢を見ていられる。
そうかもしれない。その言葉が完全に間違っているとは尚也には言えない。
だけど、いつまでも立ち止まってもいられない。
触れて割れてしまっても構わない。その悲しさ虚しさに打ちのめされるかもしれない。
「それでも見ているだけじゃいられなんだよ、もう。 だから俺は行くよ」
尚也はポケットから財布を出して小銭を漁る。目的の硬貨だけを取り出して財布は慎重にポケット中へ。こんなところで財布を落として出だしから躓くわけにはいかない。
最近まで尚也はこういうのは入れた額の問題だと思っていたが、同級生の桐島英理子にお賽銭では五円玉を使うのが慣わしだと教わった。理由も聞いたのだがそっちの方はすっかり忘れてしまっている。
こういうのは気持ちの問題だろうと、尚也はさして気にせず五円玉を賽銭箱の中へと放る。
鈴を鳴らし、手を叩き合わせる。
「…………」
別に何かを願うつもりは無い。願いは自分の手で掴み取る。
何かを伝えているのでもない。伝えるべきことはすでに伝えた。
やがて手を解き、目を開ける。
その目に迷いや躊躇いもあるかも知れない。
だけど確かな決意がある。
「それじゃあ、行ってくるよ」
バッグを担ぎ直し社に背を向ける。
鳥居をくぐり、旅立っていく尚也を無数の仮面と、いつから居たのか金色に輝く蝶々が見送っていた。
寝言
タイトルのとおり、ペルソナ1の主人公、通称ピアスの少年の旅立ちでした。
名前や設定はまんま上田信舟先生の漫画版です。あれがそもそもこのシリーズを買う切っ掛けでしたので印象深いんです。
この話はずいぶんと前に書いてお蔵入りしていたのを引っ張り出し加筆修正しましたものです。まだまだ書き足りないものがありますが、現状の私ではこれが精一杯。
もしかしたらまたいずれ修正する日が来るかもしれませんね。
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