銀座の街をとぼとぼと歩くライドウの姿があった。
 なんだかずぶ濡れになったときよりもその姿は弱々しく見える。

『まんまと嵌められたな』
「見習うべき口の上手さだ」
『そういう問題ではなかろう。 何故お前もそんな簡単に受け入れるのだ』
「話術の実践で言い負かされた以上、それに従うのは道理だと思うが」
『そんなものは不条理と言うんだ』

 あの後、まんまと鳴海にしてやられたライドウはゴウトと共に与えられた指令を達成するために竜宮のある銀座までやってきていた。
 彼のデビルサマナーとしての役目を考えれば、そんな事をしている場合では無いような気もするが、表向きの探偵見習いと言う顔も今となってはライドウにとって同じくらい大事になってしまっていた。ならば、先に片付けられそうな用事のほうから済ましてしまおうと思ったわけだ。

 もっとも、ライドウを上手く丸め込んだ鳴海ですら苦戦する竜宮の女将を相手にそう簡単に目標を達成できるのかといなれば、それは別の問題なのだが。

『まったく、あの男と意見が被るのは不本意極まりないが……お前はもう少し世間擦れと言うものをした方が良さそうだな』
「それなら今回の用向きも好都合だ。 これも貴重な経験になる」

 素知らぬ白い顔の横で黒い鴉は弱々しく鳴いて項垂れた。

 お目付け役としてこれまで十と二の『葛葉ライドウ』を見てきたが、確かに『彼ら』はその役割ゆえに、よく言えば浮世離れした、率直に言えば世間知らずな人物は多かった。それでもどうにか一般社会に溶け込む――とまでは、行かなくてもある程度の折り合いはつけていた。
 だと言うのに、この『葛葉ライドウ』は――。

 そこまで考えてゴウトは自ら考えを否定した。

 違う。
 そうではないのだ。
 確かに十四代目は歴代の『葛葉ライドウ』と比べて一向に一般社会に溶け込む様子が無い。しかし、その在り様は歴代のどの『葛葉ライドウ』と比べても真っ当だ。真っ当すぎるくらいだ。
 歴代の『ライドウ』達は己の使命に誇りと責任を持っていたが、彼ら自身の気質と言うか個性と言うべきものが周りの者との間に摩擦を引き起こしていた。そしてその摩擦こそが彼らが一般社会に適応している証でもあった。

 人間関係とは摩擦だ。

 人と人とが触れ合い生じる摩擦こそが、感触の善し悪しは様々だが独りではないと実感させる。
 いつだったか、鳴海が「酒は人間観関係の潤滑油」などと、酔って帰ってきたときに言っていたが、言いえて妙だ。
 社会を一つの大きな機械からくりと見做すとするならば、人はそれを動かすための歯車。その歯車が互いに噛み合い社会全体を動かしている。歯車の摩擦が大きすぎればそこから破綻していくし、摩擦がなければそもそも歯車としての用向きを果たせない。

 『葛葉ライドウ』は――それを所有するヤタガラスに数多のデビルサマナーも裏社会とは言え、だからこそより歯車としての役割が重要になってくる。

 しかしこの十四代目葛葉ライドウはその摩擦数値が読めない。
 その役割を考えれば、決して軽んじられるモノではなくその破綻は全体に大きな影響を及ぼす。十四代目はその役割を見事にこなしている事は疑いようが無い。
 だが、やはり見事すぎると言える。本当に自身が歯車の一つでしかないように、淡々と己の役割をこなしている。歴代の中でもここまで徹し切れている者は居なかった。
 『葛葉ライドウ』として完璧な回転のまま、まったく別の機能を有する表社会と噛みあえば、齟齬が出るのも当然とも言える。

 だが、知っている。
 この十四代目がただ無機質に回るだけではないと言う事を。

 先の超力兵団との戦いの最中に見せた苛烈さ。
 切り捨てても構わない筈の相手を救った人情。

 そのどれもが完璧な歯車が持ち合わせない筈のものだ。
 そして、何故かそんな不恰好な歯車に人が寄ってくる。

 時たま思う。
 この少年はヤタガラスという巨大な機械にすら収まらないのではないかと。
 なにかしらの「きっかけ」で、ヤタガラスそのものすら崩壊せしめる危険性もあるのではないかと。

 それは、例え推測の域を出ないとしても、ヤタガラスから放たれたお目付け役としては看過出来るものではない。
 即刻、その可能性を報告し何らかの手立てと処断を下さねばならない立場にいるはずだ。

 そのはずなのに、それでも思ってしまうのだ。
 ヤタガラスの眷属としてではなく、葛葉ライドウのお目付け役として、そこまで成長した姿を見てみたいと。

『まったく、我も他人の事をどうこう言える立場ではないか』
「どうした?」
『いや、お前のお目付け役として最近の動向を評価していただけだ』

 ゴウトの事実を濁した言い訳に納得したのか、「そうか」とだけ言って頷く。
 そんなライドウを見て思う。

 この生き方は、確かに多くの人間を寄せ付けるが、その分に多くの敵を作る危険性もある非常に危うい均衡の上にある生き方だ。
 下手をすれば、今まで仲間として寄ってきていた人間ですら次の瞬間には敵に回してしまうかもしれない。

 ならば、お目付け役として自分に出来ることは、そうならぬように見守るのが責務だろう。

 そんな事を考えているうちに、いつの間にか、あるいはようやく栗須坂にまで来ていた。あとはこの坂を上って抜ければ目的の料亭竜宮までは直ぐだ。
 しかし、その坂にさしかかろうという所でライドウは歩みを止めた。

「ゴウト」
『ん? どうした?』
「あそこにいる女」
『ん? ……!?』

 栗須坂の手前、高架下の薄暗い闇の中に佇む女。
 その姿は佇むなどと言う、控えめなモノではなく、闇に浮かぶ金の毛髪に白い肌。その豊満な体を隠そうともしない乱れた着衣は否が応でも人の眼を、欲を引き寄せる。闇に蟠る欲。

 ニンマリ。

 女は笑うと、闇に溶け込むようにライドウの視界から消える。

 だが、無論それを黙って見逃す程、ライドウは無能ではない。
 女の元へと駆けながら、外套の下に隠したホルダーから管を抜き放つ。
 途端、奔る緑光が女が溶けた闇へと吸い込まれる。

「これで奴を追える」
『まさか、この様な場所で出くわすとわな。 あの小僧の下らん用事が思わぬ幸運を呼ぶきっかけになったか』
「竜宮のほうの任務は後回しになる」
『当然だ』

 ライドウは竜宮のある方向に背を向けると、来た道を駆け戻った。



 放った仲魔からの連絡でライドウ達が追ってきた場所は異界の深川町だった。
 異界に逃げ込んだのは予想通りだが、まさか銀座から再びここに来ているというのは予想外だった。

『本当に奴はここにいるのか?』
「あー、ゴウトってばアタシの言うこと信じてないの? アタシが頑張ってあのオバサンを追ってきたのに信じないなんて酷い。 酷い! そんなこと言う口は引き裂いちゃうよ」

 背中から羽根を生やした異国装束を身にまとった少女、モーショボーは膨れっ面になってゴウトの嘴に手を伸ばそうとするのをライドウが遮る。見た目は可愛らしい少女だが悪魔だ。放って置いたら口だけではなく実際にやるはずだ。

「信じている。 それで、この町のどこにいる?」
「うーん、それが見失っちゃった」
『見失っただと!? 偉そうな事を言っておいて結局それか!?』
「やっぱり、引き裂く!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた鳥二匹を無視してライドウは一方向を見たまま微動だにしていない。今回は二匹の争いを停めるつもりはないらしい。それ以上に気になることがその方向にあるのか、ジッとその方向を見ている。

『おい! こやつはお前の仲魔だろう! 何か言ってやれ』
「ライドウ、ペットの躾はちゃんとしてよ!」
『誰がペットだ!』
「モーショボー。 奴を見失ったのはこの方向か?」

 二匹の言い争いに耳を貸さず、ライドウは一方向を見たまま尋ねる。
 ここまで我関せずだと、意図的に無視してる嫌な奴なんじゃないかと思えてくる。

「え? あ、うん。 そういえばそっちの方で消えたかな」
「そうか、分かった。 もう戻って良い。 助かった、モーショボー。 ありがとう」
「い、今ライドウがお礼を言った!?」

 ライドウの発したありえない言葉に、目玉が零れ落ちそうなくらいに見開いた。
 失礼な話だ。

「そんなに驚く事か?」
「お、驚くよ! 普通サマナーが使役する悪魔に礼なんて言わないし。 それ以前にライドウだし!」
『おい、それ以前にライドウだしとはどういう意味だ』
「そんなこと言われても、ゴウトは驚かないの? 変だと思わないの?」
『むぅ』

 呻って黙ってしまった。
 変だと思ったらしい。
 本当に失礼な話だ。

「分かった。 次からは言わないように気をつけよう」
「え? あ、別に悪いっていうわけじゃないよ」
「しかし、おかしいのだろ」
「うん。 おかし……いや、そうじゃなくてね、 ううん、おかしいことはおかしいんだけど、別にやめることはないよ。 気分が悪いものではないんだし」
「そうか」

 何に納得したのか軽く頷いて黙った。
 その素っ気無さと言うか愛想の無さはいつも通りなのだが、今回は何か思案しているようにも見える。

 ライドウのそんな様子を察して、モーショボーは気分が悪いものではないと言いながら、気味悪そうに見ている。

「ねえ、ゴウト。 ライドウってば一体どうしたの? もしかして、悪魔の召喚に失敗して憑かれちゃったんじゃないでしょうね」
『馬鹿を言え。 仮にも『葛葉ライドウ』の名を継いだ者が自身が召喚した悪魔に乗っ取られるなどという間の抜けた失態をするわけが無かろう・ 第一オマエも悪魔なら憑いていれば直ぐに分かるだろうが』
「だけど、それじゃあこのライドウは一体どうしたっていうのよ」

 聞かれても困る。
 ライドウの様に戸惑っているのはゴウトも同じなのだ。
 このライドウの事を決して礼儀が欠けた男などとは思ってはいないが、愛想が欠けている事は決して長いわけでもない付き合いの中でも重々認知している。そこは不本意ながらあの鳴海とも同意見だ。だが、ゴウトはその事だけではなく、先にも感じたあまりにも『真っ当過ぎる』ところのライドウが、本来ならサマナーにとって半ば道具としての仲魔に対して礼を述べるなどという行為はらしくないと感じた。

 そしてそのらしくなさの原因にもすぐに思い当たっていた。
 思い当たってはいたが……。

『そこまで気にしいたのか』
「不自然な印象を与えないのは潜伏して活動する上で重要な事のはずだ」
『その通りではあるが……』

 ならばもう少し愛想を良くしろと、言おうと思ったが口を噤んだ。
 愛想の良いライドウと言うのも想像するのも恐ろしい。

「どうした?」
『いや、向上心も結構だが、今は目先の事件に集中するのだ。 ここまで追って来ておきながら見逃したのではそれこそ探偵としてもデビルサマナーとしても名折れだぞ』

 失礼な考えを正論で誤魔化すお目付け役だった。
 大人はいつだって汚い。

「ああ、そうだな。 とにかくモーショボーは戻って良い」
「う、うん。 じゃーね、また遊んでね」

 そう言い残すと鳥少女は緑の燐光と共に管の中へと戻っていった。
 戻る瞬間に見えた顔が引き攣っていたような気がしたが、きっと見間違いだろう。

「では逃げられる前に行こう」
『う、うむ。 気を引き締めろよ』

 その言葉はむしろゴウト自身に向けられる言葉であったが、ライドウは素直に「ああ」と頷いて返す。ここで深く突っ込んでいかないあたりも彼の世間ズレしていない証左であろう。
 まあもっとも、事が此処に到れば世間ズレなど無用な経験でしかない。もはや目標は補足したようなものだ。残念というか幸運というべきかは難しい所ではあるが、ライドウのコミュニケーション訓練はここまでのようだ。ここから先に必要とされるのはその身体の精神に刻み込まれた魔を討つ者としての業だ。

 濃密な魔の気配が漂う異界の空気がざわざわと騒ぎ出す。
 それはライドウ達の周りにおいても同様だ。

『ふん、どうやらこの異界の悪魔どももこちらに気がついたようだな。 あるいはあの女が寄越した刺客か』
「足止めかもしれない。 急ぐとしよう」

 言葉通りに駆けるライドウ。
 ゴウトもまたその後ろを送れずに付いて来る。

 そしてまるでライドウが動き出すのを待っていたかのように周りでざわついていた魔の気配が一斉に動き出す。
 ガキの群れがライドウに向かって鋭いとは言えない、しかし人間の肉を削ぎ落とすには十分な爪を突き立てようと細い節くれ立った腕を振り下ろす。
 だが、その程度のものがライドウに届くわけも無く、襲い掛かったガキ共はライドウの放つ鋭き刀の一閃で、そのやせ細った四肢を膨れ上がった腹部を切り裂かれ、物言わぬMAGしがいとなって崩れ去る。
 もちろん今ので終わるはずも無く、未だに周りでは悪魔どもの気配がざわついている。ライドウの行く手を阻むように、あるいは明確な意思で阻むために襲い来る悪魔どもをライドウは一片の容赦も慈悲も無く切り捨てて進む。その中には先程ライドウの手助けをしてくれた鳥少女と同類もいたが、そのような事は刀を振るわぬ理由にならない。
 感傷など不要。
 感情など無用。
 悪魔とは古来よりそういったものに付け入ると相場が決まっている。魔を使役し魔を討つデビルサマナーがそのようなものに流されるわけにはいかない。流されるわけが無い。

 鳴海にやり込められ、仲魔に礼を言っていた姿など一時の仮初の姿。
 これこそがデビルサマナーとして、帝都の守護者たる『葛葉ライドウ』としての正しい姿だ。

(本当にそうであろうか?)

 後ろに付けて来る鴉は疑問に思う。
 誰よりも『葛葉ライドウ』のあり方がそうである事が正しいと知っているはずの彼が。

(本当にそれが正しいのであろうか?)

 疑念を抱くことが許されないはずの彼はそう思う。
 だからこそこのような身に貶められたにも係わらず。

 だが、だからと言ってこの渦中にそんなことを言い出せるものでもない。それこそ敵に付け入れられる。
 それにもう仲魔が示した方向から推測できる目的地もほとんど目の前だ。

 いや、目的地に関してはこの深川町に辿り着いた時点で凡そ予測はついていた。
 元よりそこは事件現場。犯人は現場に帰るなんていう言葉もあるが、まさかまさかのそのままズバリだ。なんの捻りもないオチドコロで、これが小説などだったら読者から非難と呆れの声を受けざるを得ないが、案外現実はこんなものなのか。事実は小説より奇なり。

 とは言え、しかしそう簡単に事が運ばないのも現実だ。

『してやられたな』
「ああ」

 目の前、遊郭へと続く道を遮るように、否、正しく遮るためにそこには氷の塊がデンと立ち塞がっていた。もちろん、自然に出来たものではない。悪魔が時折自分達の領域にこのようなモノをこさえて侵入者を阻んでいる。進もうというのならば破壊するか作り上げた悪魔を倒すしかないのだが、悪魔が作り上げた物だけあって簡単に破壊できるものではない。作り上げた悪魔がこの障害物の向こうでは手の出しようもない。

『これを突破するには反属性の悪魔の力を借りるしかないな。 紅蓮属の仲魔を召喚するのだ』
「すまない。 今は紅蓮属の仲魔を所持していない」
『なんだと!?』

 これが人間ならば驚愕で目が零れんばかりに見開いていることだろう。そして、その後は射抜かんばかりに目を鋭くしたのが見る事が出来たのだろう。しかし、たとえそういった目に見える変化が無くとも、翠の目に宿る怒気を感じ取る事は容易だ。

『捜査の為にも各管属を所持しておくのはサマナーとして基本だろう。 このような基礎を疎かにするとは、ライドウの名が泣くぞ!』
「すまない。 封魔管と共に仲魔のほとんどをヤタガラスに返上してしまった」
『む、ぅ』

 ヤタガラスの元に居るデビルサマナーは任務中、その難度と実力に合わせて封魔管が支給される。そして、任務が終われば仲魔を開放し管をヤタガラスへと返却するのが決まりとなっている。これはサマナーが単体で強大な力を持つことのないようにとの対応策ではあるのだが、事件への対応の遅れと予測できぬ強大な悪魔を相手取らなければならなかった場合はサマナーが危機に陥る事態になりかねない。事実そうしたことが原因で任務中に命を落としたサマナーの数は相当だ。
 サマナーという人種が内包する危険性を思えば致し方ないことなのだろうが、やはり現場で働く身としては不満がある。直轄である葛葉のサマナーでさえ信用もされていないという事になるのだ。

『仕方ないな、そこら辺で紅蓮属の悪魔を捕まえるしかないか。 管に空きはあるのか?』
「ああ、その点は大丈夫だ。 しかし、これならその空きに紅蓮属を入れておくべきだったな」
『今更言っても仕方あるまい。 別の管属で埋まっていたよりはマシだ。 業魔殿まで引き返す手間を考えればな』

 悪魔合体という外法の中の外法、秘術の中の秘術を実現させた奇才ドクターヴィクトルが居を構える(と言うのはいささか不恰好な居候という立場だが)業魔殿では悪魔同士の合体によりより強力な一体の悪魔を誕生させることが出来る。その際にある程度法則を理解していれば狙って必要とする管属の悪魔を作ることも可能なのためサマナーの戦力増強には非常に重宝する施設だ。
 が、なにせ特異な技術である。現在この悪魔合体が可能なのはヴィクトルただ一人であり、行える場所も業魔殿ただ一箇所しかない(しかし、他にもこの秘術を行う人物、あるいは組織を見かけたという噂もある)。遠方へと任務で行った際には簡単に戻ってくる事も出来ないので現地で新たな仲魔を調達しなければならない。どこでも悪魔合体が行えるような仕組みがあればよいのだが、そうもいくまい。蕎麦屋の出前とは訳が違うのだ。

「おやおや、随分と騒がしいと思えば珍しいでありんすな、この様な所に人間が迷い込んでくるとは。 しかも見たところ遊郭なんぞに来るにはまだ早い若さ。 あらま、お連れの鴉は化生でありんすね」

 特徴的な喋り方で話しかけられた。郭言葉である。場所だけにおかしな事ではないが、しかしそれはあくまで表の世界の場合の話。ここは悪魔が闊歩する異界だ。この様な所に遊女がいるわけもない。現にその声の持ち主は人ではなかった。
 美しい顔立ちだが生者とは思えぬ青白さ。そしてなによりその首の下にある身体は人の形ではなかった。鳥だ。鶏である。

『ほう、何者かと思えば火付けのオシチか。 これは幸運だ。 紅蓮属の悪魔が向こうからやってきおった。 奴を捕獲してこの邪魔な氷塊を溶かさせるのだ』

 ゴウトに言われるまでも無く、戦闘態勢に入るライドウ。悪魔を従わせる方法は酷く簡単だ。自身の力で悪魔をねじ伏せて、封魔管の中に封じ込めてしまえば良い。乱暴な話だが力こそが一番手っ取り早い自分を認めさせる手段なのだ。

 しかし、オシチはそんなライドウたちを見ても襲い掛かってくるどころか構えもせずにコロコロと笑っている。

「やはり若い子は元気が良いでありんすな。 わちきも少しくらい強引な方が頼りがいがあって好きどすけど、強引過ぎるのも恐ろしゅうて困りんすぇ。 そう猛らんでもそちらがわちきのお願いを聞いてくれればわちきも協力するでありんすよ」
『願いだと? 貴様ら悪魔が人間に一体何を要求すると言うのだ』
「そうおかしな事でもないんすぇ。 わちきら悪魔は古来から人間に魂を要求し、その代わりに人間に力を貸すと言われてるでありんしょ?」

 もちろん魂と言うのはモノ例えでありんすよ? などと笑えない事を笑って言う。

 しかし本当にこれは笑い話ではすまない。悪魔のほうからの要求など碌なものではない。それこそ魂を取られるくらいの覚悟をしなくてはならないだろう。

「願いとは何だ」
『オイ!? よもやこやつの言う事を真に受けるわけではないだろうな!?』

 相棒の意外な答えに鴉はけたたましく喚きたてる。
 だが、ライドウ自身は耳元の騒音(人語として聞こえるとは言え、やはり鴉の鳴き声としても聞こえている)に貌を顰めることなく、眼前の悪魔を見据える。

「この後に本命が控えているんだ、無用な戦いが避けられるならそれに越した事はない。 不穏な様子を見せればそのときに討てばいい」
「これはこれは本当に活きの良いサマナーさんでありんす。 この場合は粋なサマナーさん、と言った方が良いでありんすか。 心配しないでおくんなまし。 この氷塊がじゃまっけなのもこの奥にいる無断でここらで悪さしてる悪魔をどうにかしたいというのも利害が一致してますぇ。 お願いというのもアンタ様がそれだけの器を持っているか試させてもらうためでありんす」
『試すだと? ならばそれこそ腕っ節で良いではないか』
「駄目でござんしょ。 サマナーさんも言っておりんしたが、お互い無駄に戦って傷つき消費しても仕方ないでありんしょ? ここに来るまでの騒ぎでサマナーさんの実力がある程度あることは証明されていますぇ。 とは言え、悪魔であるわちきがロハで力を貸すと言うのもお安い話になってしまいますぇ。 だからわちきがサマナーさんを認めるための一押しとしてお願いを聞いてくんなまし」

 わざわざ艶やかに垂れるように言う。
 身体が鳥とは言えそこはさすがは悪魔だ。その艶には人ならざるものの妖しさがある。十二分に人を魅せつけ堕とす魔性があった。
 とは言え、そこは若輩とは言え『葛葉ライドウ』の名を継ぐ者だ。魔性にそうそう簡単に揺らぐような軟な精神など持ち合わせていない。
 いや、名を継いでる云々とは関係なくこの、、『葛葉ライドウ』だからというような気もしないでもない。

「それで、願いとは何だ」
「そうでありんすね。 オーソドックスなのは瑞々しい生命力を少々分けてもらいたい所でありますが、それでは先の話と矛盾してしまいまんしぃ。 そうでありんすねぇ……ここは魔石をおくんなまし」
「それなら構わない」

 ここに来るまでに襲ってきた悪魔を切り伏せた際に入手した魔石を外套の下(一体どこに収容スペースがあるのかは謎)から取り出し、オシチもそれを器用に翼を使って手(?)渡してもらい身体の羽毛の中へと(これも収容スペースがあるのか、それとも自身の構成物質として取り入れるのだろうか)しまいこむ。

「うれしいでありんす。 それはお次に――」
『おい、待て。 まだ要求するつもりか』
「当たり前でありんす。 わちきがこの程度で靡く女だと思われるのは癪ですぇ」

 上機嫌だったのがゴウトの一言で機嫌を損ねたようだ。
 ゴウトの言葉はむしろもっともとなモノだったのだが、言われた側からしたら気分の良いものではない。
 しかし、それにしても寸前まで喜びを露にしていたのに心変わりが早いものだ。より精神に重きを置く悪魔だからなのか、それとも女性型だからなのかは難しい所だ。
 女心と秋の空。
 タエが聞いたら怒りそうな話だ。

「まあ良いでありんす。 それではこの傷ついた心を癒すために傷薬をおくんなまし」

 これもそれほど困る要求でもないので飲める。
 傷薬を渡されたオシチは本当にそれで傷が治ったかのように上機嫌だ。

「本当ならこの程度では靡かないでありんすが、これ以上はそちらの鴉がまた喚きそうですし、そろそろこの辺にしときますぇ」

 傷は癒えても根には持っているようだ。
 ゴウトとしてもこの悪魔に一言言ってやりたいが、そこは堪える。
 言えば確実に交渉決裂になる事を理解するくらいには冷静だった。

「では最後に聞かせてもらいんす。 サマナーさんから見てわちきはどう見えまんす?」

 翼を大きく広げて見せて言う。
 なんとも悪魔らしからぬ発言である。小悪魔のようなとは言えるかもしれないが。
 しかし、それでもこれは交渉の続きなのだ。間違えた返答をして機嫌を損ねればソッポを向かれる程度では済むまい。どんなにその言動が人間のそれと似通っていても悪魔なのだ。

「…………」

 ライドウはまじまじと見て言う。

「うまそうだ」

 あんまりな返答だった
 残念な一言だった。

 いつも口煩いお目付け役の鴉ですらカァの音も出ない。

 言われたオシチ本人もあまりに予想外な答えに呆然としている。
 しかし硬直が解けれて言葉を飲み込めば、あとは顔を赤くし眦を上げて怒りを吐き出すのは目に見えている。

「あら、まあ」

 顔は確かに赤くなった。主に頬ら辺が。
 眦は上がらずに、むしろ下がった。
 吐き出されたのは驚きと照れ、そして感嘆の息だった。

「驚いたでありんす。 若い割りに肝の据わった殿方とは思っておりましたが、そのような事を言うほどに男らしいとは思いませんでしたぇ。 殿方からそんな風に言ってもらうのは久しぶりでありんす」

 実に嬉しげだった。
 口元を翼で覆い隠しているが喜色は隠しきれない。

「良いでありんす。 殿方にそこまで言われて引き下がっては女が廃りなんし。 わちきは紅蓮属オシチ。 サマナー様について行きんしぇ」

 交渉は成立した。信じられない事に。
 あるいは信じたくない事に、と言うべきなのか。

「早速だが、この氷を溶かしてくれ」
「お安い御用でありんす」

 請け負うとオシチは氷塊の前に立ち、炎を吐き出して溶かし始める。
 その後ろ姿を見ながら、ライドウの型に止まったゴウトは問う。

『やはり昼を抜いて、少し空腹か』
「ああ」

 その答えにゴウトはやはり先の交渉の成立は奇跡的な幸運に恵まれてのことだと知る。
 そうと分かると、先程まで不愉快な想いを抱いていた、意味の取り違いにより目の前で懸命に氷を溶かしているオシチが途端に不憫に思えてきた。

 それにしても、いくら空腹感があるとは言え、アレを見て「うまそう」はないだろう。
 もうサマナーがどうとか、世間ズレが何だという問題ではない気がする。もしも今のが彼なりの受け狙いの冗談だったというのならばそのセンスは実に絶望的だ。そんなことは無いとは思うが。無いと思いたいところだ。

 と、そうこうしている内に凍りは殆ど溶けて消えていっている。
 この分なら完全に消え去るのもあと僅かだろう。

 だが、ライドウはその僅かな時間を待たずに駆け出すと、炎を出し続けているオシチの横を抜けて残っている氷を足場に中へと跳び上がる。
 その眼下、氷塊の向こう側には、あの異国の女が冷気の魔力を纏った腕を溶かされつつある氷塊へと向けているのが見えた。
 ライドウはその女へと向かって退魔刀を抜き放つ。

 女も、頭上に飛んだライドウに気付き腕を正面からライドウの方へと振り上げ照準を定める間も惜しんで氷結魔法を放つ。

 いくつかの殺傷力を持った氷の弾丸がライドウの身体を掠めるが、照準の定まらぬそれらはライドウの動きを止めるには至らない。落下の勢いを載せた刀を女へと振り下ろす。

 が、動きを止めるには至らなかったが、動きを遅れさせる程度には効果的だった。女は刀が届く寸前に後ろへと大きく跳ぶ。その飛距離は今更ながら人間のそれではない。
 とはいえ、それでも全てを避けきることは出来なかった。
 数本の金髪が光を反射しながら舞う。
 だらしなく着崩していた着物を辛うじて止めていた帯も斬られ、いまやその豊満な肉体の前面はほとんど隠されること無くさらけ出されている。
 それでも女は羞恥も怒りも浮かべず、妖艶に微笑んでいる。

「遊郭で人々から精気を奪っているのはお前だな」
「ふふ、今更それを問うのかしら? こ〜んな事をしておいて」

 ライドウに斬られてはだけた着物をヒラヒラとはためかせながら笑う。
 この期に及んで、まだライドウをからかっている。

「殺意があったから斬りつけた。 犯人である確証はない」
「あ、そう」

 ライドウが反応しないとさすがに機嫌を損ねたようだ。
 が、すぐに挑発的に笑みを浮かべる。

「犯人じゃない、と言ったら見逃してくれるのかしら?」
「それは出来ない。 犯人で無いとしてもお前が何らかの形で関わっているのは明らかだ。 知っている情報を全て渡してもらう」
「ふーん、どうやって聞きだすつもりかしら? そっちのちんちくりんの鳥女を相手にした時みたいに口説き落とすつもり?」
「誰がちんちくりんでありんすか!? そこのサマナー様はわちきの事をうまそうって言ってくれたんすぇ」
「キャハハハハ! 確かにこんがり焼いたら美味しそうだよねえ」

 確かに言ったが、正解は相手方のほうだった。
 これ以上、あの話題には触れて欲しくない、というのがゴウトの切な願いだった。

「男なんてぇのはねぇ! 所詮下半身でしかモノを考えられないようなお間抜けなのよ! ちょっとチラつかえてやればだらしない顔をぶら下げて簡単に付いて来るんだから。 自分が餌になるともしらないでねえ」
「やはりお前が犯人か」
「ふん」

 上がってきたテンションに水を差されてつまらなそうにライドウを見る。

「ええ、そうよ。 どいつもこいつも下卑たツラのまま枯れ果てて逝ったわ。 死ぬ直前まで人間では味わえないような極上の快楽を与えてあげたんだからむしろ幸せだったんじゃないかしら」
「わちきらのシマで勝手なマネをせれちゃ困りんす。 いくらなんでも短時間に襲った人間の数が多すぎでありんす。 これではここら一帯が大掃除されてしまいまんし。 おまけに他の悪魔たちに術をかけて操るなんてマネまでしてただで済むと思っておりんすか?」
「それで? 落とし前を付けようと言う事かしら? アハハハ! よく言うわね。 結局自分たちだけではどうしようもなくて、そこにいるサマナーに協力してもらっている日和見が。 あなたたちはそんなんだから衰退していくのよ。 断言しても良いわ、あなたたちこの国の悪魔は百年も経たずに忘れ去られる! 憶えてるのはせいぜい物好きな好事家たちだけよ! あなたたちは悪魔としての畏怖も畏敬も失いただの収集対象に成り下がるわ!」

 女の高笑いに、しかしオシチは反論しなかった。
 できなかったのだ。
 確かにここ数十年の間にこの国の悪魔たちはかつての栄華を失い、その力と領域は衰えていった。なかには本当に消え去ってしまった悪魔すらいる。
 もしもこの調子で衰えていけば本当に百年も経たずにこの国の悪魔たちは消え去るかも知れない。それは憶測と言うにはあまりに現実味をもった予測であった。

 そしてその想いは立場は違えどゴウトも感じている事だった。
 この国を悪魔たち超常的存在から守護してきた者達のことは表沙汰になることはないが、それでもある程度知りえる立場、あるいは知るべき立場に対しては絶大の信頼と影響力を持っていた。しかし昨今の急激な文明の成長に反比例するようにそれらを失っていった。
 恐らく、百年後の世界ではもはや『葛葉』の名を継ぐものはいないかもしれない。

 だが、そんな勝ち誇った笑いにも無念な悔しさにも構わず進み出る人影。

『む』
「サマナー様」
「なぁに、坊や? 遊んで欲しいの」

 この場で動く影などあとは一人のみ。
 人の心の機微やその場の空気を読むなんていうのが大の苦手な男、十四代目葛葉ライドウのみだ。

「人々から精気を奪ったお前を斬る」
「ふふ、今の話を聞いてなかったのかしら? それとも聞いてても理解できないくらいにお馬鹿さんなのかしら? 私みたいなのがいないと貴方たちサマナーも用済みとして忘れ去られるわよ。 私みたいなのは一匹くらいお目こぼした方が貴方たちにも都合が良いと思うわよ。 特に私ならたっぷりサービスもしてあげられるしね」

 悪魔らしいそんな誘惑に、しかしライドウは聞く耳を持たずに手にした刀を突きつける。
 悪魔の誘惑に付け入られないようにするのはサマナーとして基礎中の基礎だ。ましてや、彼はこの国の最高峰のサマナーである葛葉四天王の一角の名を継ぐものだ。

「百年も後の事など知らない。 だが帝都守護を任命された今代のライドウとして、十四代目葛葉ライドウがおまえを討つ」

 突きつけた剣先が、見据える眼光が、その言葉が安い誘惑を断ち切る。

「白けたわ」

 今まで見せた挑発的な艶がある魂を擽る声とは一転、感情が抜け落ちた、しかし魂を突き刺すような声が突きつけられた刀に合わせられる。
 内から発せられる魔力にほとんど用を為していなかった着物は千切れ飛ぶ。その下には新たに黒い服がピッタリと張り付くように覆っていく。大きく開かれた背中からは蝙蝠のような羽が生え威嚇するように広げられた。

「折角楽しい気分だったのに台無しよ。 女の扱いを心得ていない無粋な男にはきちんと責任を取ってもらわないとね」

 夜魔サキュバス。
 女性型の夢魔で男性から精気を奪う、同種族の中でも一番名の知れている悪魔だ。

『今までの被害者の状態と場所を考えてある程度予測はついていたが、まさか本当にそのままズバリだとはな』

 完全に悪魔としての姿を現したサキュバスはニタリと笑う。

「さあ、覚悟なさい坊や。 あなたの精気も根こそぎ乾涸びるまで奪ってあげる。 だけどあなたには至高の快楽ではなく至上の苦しみを与えながら、ね!」

 放たれた氷の礫は今度は狙い外さずにライドウへと殺到する。
 だが、ライドウとて今は自由の利かぬ空中にいるわけではない。掻い潜り避ける。

「ふふ、上手に避けるわね。 でも、いつまで続くかしら?」

 連続で放たれる氷結魔法。
 さすがに避けながら前に進むには数が多い。横にときには後ろに動き氷結魔法を避けていく。
 しかし避けた先にも更に放たれる氷の弾丸に避けるだけで中々近づけない。
 ライドウは腰のフォルダーから拳銃を引き抜きサキュバスへと発砲する。悪魔用の弾丸が装填されてるとは言え大きなダメージは見込めないが牽制するには打って付けの道具だ。
 が、しかし。

「ふふ、そんな玩具でどうしようというのかしら?」

 ダメージを与えるどころか手を緩ませる事すら出来ない。氷結魔法も休むことなく放たれ続ける。

『ぬぅ、サキュバスごときが何故コレほどまでの力を』
「ふふ、私はここで馬鹿な男たちの精気を一杯頂いたのよ。 食らったマグネタイトの分、私たち悪魔は強くなるのよ」

 攻撃の手は休まるどころかより一層激しくなっていく。こちらの遠距離攻撃が効かず近寄れずで完全な防戦一方だ。
 それでもライドウは避けながら更に発砲。
 放たれた弾丸はサキュバスに当たるがやはり効果は無く、氷結魔法もライドウへ変わらず集中砲火を浴びせてくる。

 そう、ライドウに集中して。

「嫌がる殿方にしつこくちょっかい掛ける女は醜いでありんすよ!」

 横合いから突然来襲した火球がサキュバスを包み込む。
 サキュバスは完全に失念していた。
 ライドウが一体何者であるのかということを。
 この場にいる敵がライドウ一人でないということを。

 それでも、炎の中から聞こえてくるのは断末魔の悲鳴でも苦悶の呻きでもなく、涼しげな笑い声だった。

「温いわね。 いえ、この程度で得意げになるなんていっそ寒々しいわ。 この程度の炎じゃ私のテンションを熱くさせることもできないわよ」

 炎に身を包まれながら悠然と火傷一つ、煤一つ付けることなく微笑むサキュバス。
 だが、そんなサキュバスの様子にオシチも歯噛みするでもなく不敵に笑い返す。

「ええ、そうでござんしょ。 せいぜい肝を冷やしてくんなまし」
「なっ!?」

 そう何度も言うがサキュバスが相手をしているのは一人ではない。
 相手はデビルサマナー葛葉ライドウ。悪魔を使役し悪魔を討つ者だ。

 オシチの火炎により視界が塞がれていたサキュバスの眼前にライドウが振り下ろす。

「ぐっうぅ」

 捉えたが浅い。
 ダメージは致命傷と言うほどではないが、それでもこの間合いにまで入り込んだのは大きい。サキュバスは見た目どおり魔法主体で近接戦闘を得意とする悪魔ではない。距離の逆転が立場の逆転となる。

 ライドウが振るう刃をどうにか致命傷にならぬように避けるので手一杯。氷結魔法を放っても僅かに必要とするタメで深手を負い、放つ頃には避けられている。
 未だに致命的な一撃を受けていないのは今まで掻き集めたマグネタイトによる強化のお陰だ。しかしそれでもいずれは致命的となる一撃を喰らうのは明らかだった。

 完全に侮っていた。
 夢魔はその特性から実はあまり討伐されることがない。少しずつ精気を吸い発覚した頃には既にその場を立ち去っているからだ。オシチの言うように一所で大量に精気を吸えば発覚が早まり、いずれはデビルバスターの手が迫る。力を付けた事で本来なら警戒すべきだったそういった事柄を忘れ去っていた。例え追っ手が来ても返り討ちに出来るとタカを括っていた。
 最初にこの国に来たときは格好の餌場だと思っていた。この国は長い間、外国との交流を経ってきたので外から入ってきた悪魔の知識が少なく、またその割りに新しく入ってきた者を取り入れようとする。それは物でも人でもだ。だから簡単に誘惑できて、その精気を奪うことが出来た。ツイてると思っていた。
 だが、結果はこの様だ。デビルサマナーに見つかり、それすらもより大量にマグネタイトを得られる幸運が舞い込んだと錯覚して待ち受けていたらその力は自身の予想を上回っていた。

 いつからだ?
 いつから幸運を手放して不運を招きいれたのだ。

 このままでは死という最大の不運に見舞われることになる。

「っっっ! ふざけるなああああああああ!!」

 怒りの咆哮と共にサキュバスの周りに冷気の渦が発生する。
 周囲の水気は凍りつき氷の刃となって冷気の渦の中を奔る。

 急激な温度変化による衝撃によって吹き飛ばされたライドウもさすがに氷の刃を避けきれずその身体には大小の傷を負った。

 オシチが放った火球も今度はサキュバスに到達する事も出来ずに冷気の渦でかき消され、大量の水蒸気を作るだけだった。

 サキュバスは冷気のカーテンに守られながら今までの小出しとは違う巨大な氷塊を作り出す。

「ここまで! ここまで力を付けたのに! あなたみたいな坊やにやられてたまるものですか! あなたを屠り、私は更に高みへと――!!」

 ゾブリ。

 作りかけていた氷塊が崩れる。
 サキュバスは自分の内から蓄えた力が抜けていくのを感じた。
 その流出口に目をやれば、胸元に深々と刺さったライドウの刀が見える。

「あ」

 だが本来握られるべき柄の部分にはライドウの手はない。この冷気の層を抜けてくるのはいかにデビルサマナーとは言え出来る事ではない。だから、氷結最大魔法ブフダインを放とうとしたのだ。

「あ、ああ?」

 水蒸気が再び凍りつき、明瞭になった視界の先には冷気の渦越しに何かを投擲したような姿勢のライドウが見える。

「あ、ああ、ああああああああああ!!!」

 その叫びは果たして痛みか怒りか、それとも絶望か。
 サキュバス自身にもそれは分からない。

 しかし、それでもサキュバスは未だに辛うじて理性を残していた。
 あるいは本能が活きていたと言うべきか。どちらにせよ、感情に流されはしていなかった。

 翼を大きくはためかせると胸に刀を突き刺したまま飛び上がった。
 そう、彼女は痛みでのた打ち回るでも怒りのままに不完全なブフダインを放つでも絶望のまま立ち尽くすでもなく、生存本能のまま逃走を図ったのだ。
 未だに完全に消えていない冷気の渦が盾となり追撃は防いでくれる。ならば後は空中に逃れてしまえば人間に追いかける術はない。

 が、飛び立とうというその時になって、上昇が止まる。
 背中にずっしりとした重みが生じた。

「な!?」
「ハロー」

 赤ん坊のように童子が張り付いていた。
 もちろん、親子感動の対面なんてものじゃない。

「ボクは蛮力属オバリヨン」
「あんた、一体……!?」
「結構プライベートを大事にするタイプなんスよ……。 まあ、チミにはまだまだ教えられないことがイッパイだね」
「何を……!?」

 まさか、と眼下を見る。
 これで何度目となるのか。あの若きサマナーを見て驚愕の思いに震えるのは。

 ライドウはサキュバスが空に逃れるのを見やると外套の下から封魔管を引き抜いた。
 管から発せられた燐光はサキュバスの頭上にまで伸びて、爆ぜる。
 数少なくなってしまっている仲魔の中から目的に最適と思われるモノを瞬時に判断し召喚する。デビルサマナーとして要求される能力の中でも特に重要な要素。ライドウが選んだのがあのオバリヨンだった。

 だが、サキュバスが驚愕したのは別に彼が瞬時に仲魔を召喚した事に対してではない。仲魔を召喚したというそれ自体に対して驚愕したのだ。
 普通、サマナーは一人一体の召喚で留めている。それは仲魔に供給するマグネタイトの問題がまず一つ。いくら手数を増やそうとも力の源が足りなければただの烏合の衆に成り下がる。
 そしてもう一つが寝首をかかれない為だ。仲魔になった悪魔は契約の元にサマナーの命令に従うが、それでも悪魔である。気を抜けばサマナーを出し抜いてくる事もありえるのだ。
 リスクと戦力。その両方を考えて二体同時に召喚するなど普通はしない。
 だが、ライドウはそれを迷い無く行った。
 それを無謀と笑うだけの余裕はサキュバスには持ち合わせていなかった。

「は、離れなさい! 邪魔よ!」
「ダメっすね。 ライドウに頼まれてるし、ボク」
「アイツは今あんたを含めて二体も召喚してるのよ! 上手くすればあの坊やを殺して自由になるチャンスかも知れないわ!」
「ムリムリだね。 ボクとライドウはマブダチだから。 あとでチャクラチップ貰う約束してるんスよ」
「チャク……そんなもので従ってるの!? こんな先の無い国を守ってる奴に従ってたって碌な眼に遭わないわよ! この国はこれから先悪魔が住めるような場所じゃなくなるかも知れないのよ!」
「そしたら行ってみたいね。 イスタンブール」
「何言ってるの!?」

 ダメだ! 話にならない!

 振り落とそうと必死に足掻くが、さすがはおんぶお化けと言うべきかピッタリと張り付いて離れない。
 一応徐々にではあるが上昇しているものも、これでは追跡を巻く事もできない。

「ええい! どうでも良いから離れなさい!」
「いいッスよ。 それじゃあバイバイだね」
「え?」

 あっさりと、今までの苦労が嘘のように本当にあっさりとオバリヨンが離れて落ちていく。
 そのことに喜びよりも戸惑いを覚えるサキュバスに、更に致命的な一言をオバリヨンは言い残す。

「ひそかにピンチ。 ロンリーだね、チミ」
「は?」

 落ちていくオバリヨンを思わず眼で追っていくと、ソレは嫌でも眼に入ってしまった。

 サキュバスへと銃口を向けるライドウ。
 それ自体ならまだ良い。いくら弱ったからと言っても、あんな豆鉄砲でどうにかなるほどではない。
 しかし、その横で拳銃へと火気を注ぎ込むオシチの姿もあるならば話は別だ。

 サマナーとその仲魔が協力する事でそれぞれ単体が放てる火力の限界を超えた一撃を放つことが出来る。
 今、それがサキュバスへと向けられているのだ。

 このときサキュバスは本当に絶望したときは、声など上がらぬ事を知った。

 銃口から放たれた巨大な火球はサキュバスの眼前に迫り、あっという間に実にあっけなく紅蓮の炎で包み灰へと還した。





『まったく、無茶をする。 マグネタイトが枯渇したらどうするつもりだったのだ』
「あそこで逃がすよりも良い。 他に手段も無かった」

 サキュバスを討った二人は筑土町に戻ってきていた。
 折角無事に事件を解決したと言うのに話の内容が説教と言うのはいただけないが、それでも心配から来るものだと思えば煩がるのも悪いだろう。そもそも言われているライドウが気にしていないのだ。
 こうして無事にライドウが歩いている事から分かる事だが、あの後ライドウはオバリヨンにもオシチにも寝首をかかれることなく、むしろオシチは正式な仲魔として封魔管の中に入っている。
 先の連携といい、普通は仲魔になったばっかりの悪魔がこれほどに従う事は無いはずなのだが、今回は随分と簡単に従ってくれているようだ。

『むぅ、いささか不満ではあるが、どうやら力尽くではなくあのような交渉と言う形で仲魔にした事で忠誠がいつもより強くなっているのかも知れぬな』
「やはり交渉能力は大事なのだな」
『まあお前の場合は本当にもう少し対人能力を身に着けるべきだと、今回の事件で確信させられたがな』

 今回は奇跡的に良い方向へ作用したが、あのときの会話は思い出すだけで頭が痛かった。

『まあ、それは今後人の中で揉まれて学んでゆけば良い』
「ああ、分かった」

 事務的な返答に今後先が思いやられる。

「おーい、ライドウにゴウトちゃん」

 と、口先だけなら間違いなくライドウの一枚も二枚も上を行く上司が事務所の前で手を振って迎えに出ている。いや、わざわざ帰ってくるのを待っていたとも思えないから丁度これから外出するところか、同じく戻ってきた所なのだろうか。

「随分と時間が掛かったみたいだけど、首尾のほうはどうだった?」
「大丈夫です、解決しました」
「そーかそーか。 そいつは良かった。 いやー何だかんだでやっぱり心配してたんだよ。 だけど杞憂だったみたいだな。 いやー本当に良かった」

 バシバシとライドウの肩を叩く鳴海の顔は本当に嬉しそうだった。
 そこまでライドウの身を案じていたのだろうか。確かに普段はアレだが、それでもライドウのことを気にかけてくれている上司だが、今回の任務はそれほど厄介な雰囲気ではなかったはずなのだが。

「で、どれくらいは待ってくれるって?」
「……待つ、とはどういうことでしょう?」

 鳴海の言葉の意味が理解できずに聞き返すライドウ。
 だが、鳴海自身もライドウの反応が理解できずに首をかしげる。

 なにやら2人の間に認識の差異があるようだ。

「何って、期限だよ、期限。 まさかいつまでもって訳にはいかないだろ? いや、そこまで交渉してくれたっていうなら、それはそれで嬉しいけどさ」

 2人の間にある認識の差異が決定的になった。
 そして思い出す。そもそもライドウたちは何をしに出て行ったのかを。

「で、竜宮の女将さんはツケをどれくらい待ってくれるんだ?」

 この後、ライドウが身に着けたばかりの拙い交渉術で鳴海を誤魔化したのか、それと正直に謝ったのかは想像に任せよう。





あとがき
この話は、アバドン王をプレイしている最中に「うーん、何で交渉になったんだろう? そもそもライドウって交渉が出来るようなキャラだったのか? そうだ、超力とアバドンの間の話を捏造して書いてみよう」なんて思ったのが切っ掛けでした。
ちなみにそれはアバドン王が出た都市の11月くらいだったと思います。
……思い付きから完成までどれくらい掛かってるんでしょうね?
それにしても後編がこんなに長くなるとは思わなかった。ちゃんと分量を考えないとダメですね。
サキュバスはライドウシリーズには未だに出てきていない悪魔です。氷結属性の魔法を使うのは完全に私の捏造で、オシチを出したかったために反対属性にしました。多分、本編に登場したら外法なんでしょうね。
ライドウは未だに自分の中で口調が固定されていないので結構軸がブレたキャラになってしまっています。コミッククリアで連載中の漫画を参考にして這入るんですが難しいです。ドラマCDが早く聴きたい。
あとありんす口調も難しいです。
では、最後になりましたが読んでいただき本当にありがとうございます。



戻る