人間がこの地上に誕生してから――いや、文明などと呼ばれるモノを築きあげてから数えても人間の欲求と言うのは中々消えるものではない。例え、その知能を高め、技術を磨き、大地を駆け抜ける車両、海原を渡る船舶、大空を飛ぶ航空機、それらを生み出し活用するにいたっても、未だに止まらない。

 人間の欲に底は見えない。
 人間の欲は果てがない。

 極端な話だが、社会とは欲望を核に欲望で構築され欲望で維持されている。
 欲望があるからこそ人間社会は栄え、欲望が尽きぬからこそ活気に溢れている。

 しかし、古来から人間の欲望を糧にしてきているとされているモノ達――悪魔と称されるモノ達が人間の欲望が際限なく増徴していく世界で、跳梁跋扈しているかと言えば、そんなことはまったく無かった。むしろ、衰退の一途を辿っているとさえ言っても良いかも知れない。
 それは断じて悪魔を討ち斃す者たちにより滅ぼされてきたわけではない。本来、悪魔たちが糧としているはずの人間の欲望により蹂躙され、駆逐され、排斥され、忘却された。

 それほどまでに人間の欲望は膨れ上がり世界を呑み込んでいた。
 遥か昔から語られる、遠くない将来訪れる世界の破滅とは、予言などに語られるような神や悪魔によって齎される物などではなく、人間の欲望によって招かれるのではないかと思えるほどに。

 さて、その際限なき欲望を満たすために、他者の欲望を利用すると言うのは意識的にせよ、無意識にせよ、当然のように行われている事であり、大きな成功を修めている者たちの多くは意識的に利用していることが多い。そのため、それを羨む者達も自身の欲望を満たすために倣って他者の欲望を利用とする。既に欲望を利用し成功を修めている者達はそこに需要を見つけ供給する。

 支え合い、と言うにはあまりに利己的な関係。
 しかしながら、それによって成り立っている社会。

 深川町、遊郭。
 ここもまた、人間の欲を利用して欲を満たす人間たちによって運営される場所。
 人間の欲で淀んでいるが、それ故に活気に溢れている。

 艶やかな立ち振る舞いで自然と客を呼び込む遊女、既にお目当てが決まっているのか足取りに迷いの無い男性。この場所に来て日が浅い者の表情が硬いのは遊女も客も変わらないようだ。

 そんな中、この街に似つかわしくない人影があった。
 正しく立ち上がった影とばかりに全身が黒で覆われている。オマケにその肩にも黒い塊が存在しているる。
 鴉である。
 黒い影とその肩に留まった鴉。まるで西洋の悪魔のような出で立ちだ。

 しかし、ソレはよく見ればなんてことは無い。黒いズボンに黒い詰襟とその上に羽織った黒い外套に頭の上に乗せられた黒い帽子。何の変哲も無いただの書生の格好だ。

 いや、待って欲しい。
 ここは遊郭だ。
 遊郭と言う場所がどういう場所であるかわざわざ説明するまでも無いだろうが、少なくとも書生が訪れて良い場所ではない事だけは間違いない。
 この遊郭を纏めている関東羽黒組の佐竹と言う人物はそこら辺の道理をきちんと弁えている人物であるはずだ。ならば、彼の子分たちがこんな隠す気すらない書生をみすみす中に入れたりなどするだろうか。

 ならば、やはりソレは似つかわしくない人影だ。
 だと言うのに、不届き者がいないか目を光らせている羽黒組の若衆も、店の女たちも、常連と思しき客もまったく気に留めている様子が見受けられない。まだ日の浅い客くらいしか、この不相応な影を気に留めてはいなかった。

 お陰でより異様だ。
 異物が溶け込んでいる様は、異様と理解している者から見れば気持ち悪い。

 実際、常客以外の客は書生に顰め面を向けている。それでも、何も言わないのは仕切っている羽黒組の者が何も言っていない以上、客でしかない自分たちが口を出す事では無いとの判断と、こちらの方が理由としては重いのだろうが、関わり合いたく無いからであろう。

 お陰で『書生』という記号にしか気付かず、彼を個人として認識する者もいない。

 良く見れば、その相貌は身に纏う色とは真逆の色だ。透き通るような白さというが、この書生の場合はあらゆる色を反射し拒絶する無機的な白さだ。書生の感情の少ない表情がその印象をより一層強めている。だが、それだけにその白い面は綺麗だ。人の顔の美醜などそれぞれの感性だろうが、それでも雑多で余分なものが無いモノは綺麗だ。

 しかし、やはり若い。
 書生の格好に偽り無く、少年と呼べる年齢のようだ。

 つくづく、この街には不釣合いだ。
 大体、肩の鴉は一体なんだと言うのだろう。

 とは言え、彼もここへ遊びに来た訳ではない。
 それは彼が持つ遊びに来たにしては浮かれていない(もっとも、中には戦地へ赴く戦士の如き気迫で訪れる者も居るがそれは稀有な例だろう)事からも分かる。
 そして、もう一つ。彼の話し相手となっている遊女の顔に接客用の笑顔が浮かんでいない事も根拠として挙げられる。

 眉根に皺を造り、目尻を上げ、接客用も何も笑顔ですらなかった。
 滅茶苦茶不機嫌そうだった。

「……で? あんたはこの写真の女を探してる訳ね?」

 声音も不機嫌なままで、女は書生に渡されていた手元の写真に視線を落とす。

 写真に写っているのは一人の女性。
 セピア色の写真からは分かりにくいが、その色合いが大多数の日本人がそうであるような黒髪ではなく、顔立ちからも西洋の人間である事が分かる。
 だが、何よりも印象付けられるのは『色気』だ。
 日本人離れしたプロポーションはそれだけで目のやり場に困るか釘付けになる。おまけに、その身体を包んでいるのは洋服ではなく和服。しかも、だらしなく着崩れ、はだけている。その顔も美醜よりも(と言っても、一般的に言うところの『美人』である事は違いないが)明らかに『誘っている』表情のほうが目を引く。
 写真に写っている場所は確かにこの遊郭のようだが、こんなあからさまな女性は、少なくともここの遊女にはいないはずだ。

 それにしても、書生がここへ来たのはどうやら人探しのようだ。それでも何故書生がこのような女性を探しているのかと言う疑問が残ったままだが。

 不機嫌なままに写真の女を見ていた遊女は、やがてポツリと「見たよ」と言った。

「先月の頭あたりからだったかね。 時折、姿を現しては勝手にお客さんを連れてくいけ好かない女さね。 すぐに羽黒組の人達が追っ払うだろうと思ってたんだけどね、何時まで経ってもいなくなりゃあしない。 佐竹さんに限ってはありえないけど、子分どもは色仕掛けで黙らされたんじゃないかって噂も有るくらいさね」

 忌々しいと、吐き捨てる。
 まず客に見せることのない表情だが、それだけに笑顔やおべっかよりも信頼が置けそうだ。
 よっぽど鬱憤が溜まっているのだろう。

 だが、書生も別に彼女の愚痴を聞きに来た訳ではないので、延々と続きそうな愚痴を遮り女の目撃情報の先を促した。それに遊女はますます顔を顰めて詰まらなそうに鼻を鳴らす。

「あん? どこにいるかだって? ……ふん、さっきもそこに居たよ。 いつものように男ひっ捕まえて、そこの路地裏に……って、ちょっと、あんた!?」

 怒鳴り声で引き止めるが、既に走り出していた書生の耳には聞こえない。遊女が示した角へと駆けて行く。その表情は先程までと違い、同じ無機質でも刀のような鋭さを有していた。
 今までその肩に留まっていた烏が先行する形で飛んで行く。

 人一人が通れるかと言う隙間を鴉が滑るように飛んで行き、その後を書生がさすがにやや減速して入り込んでいく。両脇の壁にぶつかりそうになりながらも、その間を器用に駆け抜ける。
 とは言え、暗く薄暗い路地裏、先の見通しもし難い。自然、全力疾走というわけにはいかなくなる。先行する鴉とは距離が開いていく一方だ。その事に内心で焦燥を感じ始める。

「クワァ」
「!?」

 目指す先から鴉の鋭い鳴き声が聞こえた。
 焦燥が一気に不安へと移り変わる。

 足場や視界の悪さなど無視して、一気に速度を上げて路地を駆け抜ける。

 何かを蹴飛ばして、バランスを崩す。
 倒れそうになるがこの狭い路地、壁にでも体をぶつければ倒れずに済む。
 だが、そのせいで肩に痛みが走る。
 知ったことか。この程度痛みの内に入らない。

 視界の先に光が見える。路地の先の開けた空間が目に入る。

 一気に路地を駆け抜け、そして……。

 墜ちた。



 矢来区筑土町。
 老若男女問わずに人々が行き交うこの町に異様な影があった。
 姿格好は別におかしい所はなく、どこにでもいるような書生だ。いや、どこにでもいると言うには、顔の造形が整い過ぎているが、そんな事はとても些細な事だ。
 何故なら、彼にはもっと人目を、訝しげな視線と哀れみの視線を引き付けてしまう理由があった。

 全身ずぶ濡れだった。

 学帽からはポタポタと雫が落ち、水分を含んだ制服と外套が身体にグッショリと貼りつき彼の歩みを阻害する。
 『水も滴る良い男』などと皮肉を言うのも躊躇われるほどにずぶ濡れな姿は哀れだった。
 その肩に止まる鴉がまるで嘲っているようで、彼の惨めさを一層引き立てていた。

 実際には鴉は嘲っているわけではなく、呆れているわけなのだが。

『まったく、だから来るなと言ったであろう』

 鴉の鳴き声から書生が聞き取った”声”は人間ならばため息でも混じっていそうな声音だった。
 それに対して書生は気まずげに帽子を目深かに被ってしまう。

 こんな姿を見て、果たして誰が彼を日本有数の『悪魔召喚士』などと信じるだろうか。

 いやまあ、そうと知られぬように学生として身分を隠し、私立探偵の助手として日々を過ごしているわけなのだから易々と信じられるのも問題だ。が、彼の真実の姿を知るものですら、今の姿を見たら自分たちが今まで悪魔に謀れていたのではないのかと疑ってしまいそうなほどに惨めだった。

『しかし、あの女も謀ってくれたものだ。よもや捜査対象の仲間だったのではあるまいな』
「だとしたら、あの程度で済むわけがない」
『それもそうだな』

 別に命の危機に陥ったわけではなかったのだ。もしも本当にこの探偵見習いの書生をどうにかしようと言うには、あまりにもお粗末な罠だ。
 もっとも、そのお粗末な罠にあっさりと引っ掛かった事が知れれば、悪魔召喚士生命が危機になりかねない。もしもそれを狙ってやったと言うのならばそれはそれで巧妙で恐ろしい罠だ。

『まったく、この有様で戻ったらあの探偵にコケにされるのではないか』
「そんな事は無いと思うが」

 彼の雇い主は確かに周りからちゃらんぽらんとかサボり魔だとか甲斐性無しだとか落伍者などと呼ぶものもいるが、決してその人格は悪辣なモノではない。人の失敗を笑うような人間ではない。
 だと思う。
 そのはずだ。

 と、彼が住み込みで働く探偵社が入っているビルヂングが見えてきたところで彼は足を止める。
 ビルヂングの入り口の前、ひょろりと長いスーツ姿の男が、自分の胸くらいの身長の着物姿の女性に凄い剣幕で言い募られて引き攣った笑みを浮かべている。

『ふむ、どうやら人の事を笑っていられる状況ではなさそうだな』
「また、家賃の催促でしょうか」
『あの浪費家は反省と言う言葉を知らんのか。 《ヤタガラス》から活動資金として決して少なくない額が支給されているはずが、何故こうも簡単に底を突く。 それだけなら未だしもあちこちでツケまで溜めている始末だ』
「本人によれば、情報を集めるために必要な人脈を確保するための必要経費らしい」
『見え透いた言い逃れだな。 大体それが役立った事など……まったく無いとは言わんが、やはりそれでも本音のところはただの遊興ではないか。 何故に超国家機関ヤタガラスがあんな男を選んだのだ』

 ブツブツ――いや、カァカァと文句をたれる鴉に、書生は今の自分の身を省みず苦笑を漏らす。
 確かに鴉の言う事も至極もっともだ。だが表向きの彼の雇い主であり上司になるあの人物が、それでも十分に信頼するに値する人物である事は先の事件で理解している。ならば、鴉の愚痴はそれ以前のような不満だけのものでもないのだろう。

 そう言えば、自分もあの事件より以前はこの小さな黒いお目付けに一人前と認められていた訳ではなかったな。

 書生がちょっと懐かしんでいる間に、どうやら彼の上司のほうに動きがあったようだ。
 今にも噛みつかんばかりだった女性が眉を顰める程度になり、男のほうが更に何やら言うと怒りと言うよりも拗ねたような顔付きに変化し、次第にその口元には笑みまで浮かぶようになった。最後に呆れ困った様子で男に何かを言うと女性はビルヂングの中へと消えていった。
 ライドウには女性の一連の変化がまるで魔性の術にでも掛かったように見えるが、彼がそのような術を使えないことは承知している。そしてその技能が今の自分では決して真似できる代物では無い事も。

「相変わらず見事なものですね」
『ふん、口だけは達者なヤツだ。 ヤタガラスからもそうやって資金をせしめているのではないだろうな』
「お、なんだライドウにゴウトちゃん帰ってたのか……って、どうしたよ? その有様は。 ずぶ濡れじゃないか。 水も滴るいい男になっちゃって、まあ。 だけどなライドウ、本当にいい男ってのは常に身嗜みを整え、水飛沫のほうが畏れ多くて避けていくもんだ。 まあ、まだ若いお前にそこまで求めるのは酷だろうけど、我が『鳴海探偵社』の社員としてはそこら辺の心構えを持っていてもらいたいもんだな」

 どうやら無事に窮地を乗り越えたことで、書生――ライドウの存在にようやく気がついたようだ。

 しかし、それにしても良く回る舌だ。
 この舌で先ほど窮地を乗り越えたのだろうが、口数の少ないライドウとは見事に対照的な性格だ。これでは、何があったのかを話す隙が無い。
 ライドウが調査報告と言う名の失敗談を語りかねている内に、彼の上司はどんどん話を進めていく。

「そんな姿を道行く皆様に見られちゃ我が社の信用に関わるなあ。 おまけにその有様じゃ満足に雑用もこなしてもらえそうにないしなあ。 さっさと事務所に戻ってそのみすぼらしい格好を正して来い」

 あんまりと言えばあんまりな言い草だが、ライドウは文句も言わずに頷いて応える。
 彼の言っている事は内容的には正しいし、それになにより言いたい事もなんとなくだが理解できていた。

 要約すれば、「いつまでも濡れた格好でいると身体を壊すぞ」と言う事だろう。



 どんな事にでも表と裏がある。

 例えば一枚のコインのように。
 例えば1人の人間のように。

 人の世にも裏がある。
 それは或いは人が自ら招いたモノであったり、或いは自然と発生したモノであったり、あるいは――人ならざるモノだったり。

 悪魔。
 急激に、それこそ先に述べたようにあまりにも急激過ぎて、自分たちにも行き着く先が見えないほどに進歩を遂げる世の中において、その居場所を追いやられていった存在。裏側へ裏側へと押しやられ消え去った――訳ではない。確かに往年のような自由があるわけではないが、押し込められた分より深く暗くその闇は凝縮されていっている。

 衰退はしても敗退したわけではない。

 元より悪魔は望まれてそこにいる。
 ならば、望まれれば何度でも姿を現すだろう。
 他でもない。彼らを衰退に追いやった人間によって。

 だが、それを望まぬ者も居る。
 その理由は様々だが、その目的のために悪魔を狩る者達は、悪魔と同様に古来から衰退はしても今も消えることなく存在している。

 超国家機関ヤタガラス。
 この日本に根付くおそらく最大規模の討魔組織。

 悪魔を使役し悪魔を討伐する、デビルサマナーが多数在籍するこの組織において特に際立った者達がいる。
 彼らの歴史は古く、平安の時代からこの国の霊的守護を担ってきた一族だ。

 先の書生――ライドウもまたその一族の1人。
 いや、彼こそが誉れ高き葛葉一族の中でも四天王と呼ばれる四名の一名、『ライドウ』を継いだ十四番目の猛者。

 十四代目葛葉ライドウである!



「あははははっはははっは!!」

 事務所の中に笑い声が木霊する。

 笑っているのはこの探偵事務所の所長でもある鳴海。
 笑われているのは助手と体裁になっているライドウ。

 ずぶ濡れになった理由を報告したらこの有様だった。

 笑われた。
 大笑いされた。
 爆笑された。

『だから言ったではないか』
「…………」

 呆れる目付け役と笑う上司に挟まれて気まずく沈黙する。
 深く被り直した新しい学帽の下の顔は相変わらず表情に乏しいが、内心ちょっと傷ついていた。
 普段の言動から感情の起伏が乏しいと思われがちだが、表情に出すのが苦手――と言うよりも彼が『葛葉ライドウ』を襲名するために行ってきた鍛錬の賜物なのだが、やはり日常生活を送る上では浮いてしまう。これでも、初めてここに来た時よりはマシにはなっているのだが。

「ヒィーヒィ、はぁー。 あー、笑った。 いやいや、ライドウも結構ドジなところがあるんだな。 まるでタエちゃんみたいじゃないか。 まあアレだ、ライドウもまだまだ経験不足って事だな」

 残念ながら反論の余地が無い。
 言葉の真偽を見抜けなかったこと。感情に走って冷静な判断が出来なかったこと。それらのミスをライドウ自身も己の未熟と痛感していた。

「うーん、それもあるにはあるんだけどな」

 しかし、ライドウの反省点を聞いて鳴海は苦笑を浮かべる。
 その笑みは先程まで上げていた愉快から来る笑いでも、失敗を詰る嗤いでもない。
 数式を解くのに誤った公式を用いて頭を悩ます生徒に向けるような、鏡の向こうに別の世界があると思っている幼子に向けるような笑み。

 それは大人が子供に向ける笑みだった。

「なあ、ライドウ。 お前は何でその遊女がお前にそんな嘘を言ったか分かるか?」
「……いえ」

 まさかゴウトが言っていたように捜査対象とグルだった訳ではあるまい。
 しかし、ならばなんだと聞かれてもライドウには心当たりが無かった。あの遊女とは今回が初対面――ではもしかしたら無いのかも知れないが、それでも恨みを買うほどの深い関係でもない。大体恨みがあってのことならば、やはりあの程度で済むはずもないだろう。となると、あと思いつくのは出来心による悪戯くらいだ。

 ライドウのその答えに「まあ、出来心の悪戯ってのもあながち間違いではないだろうけどな」と言う。
 その言葉とは裏腹に、ライドウの答えが全くの見当ハズレだと言うのが分かってしまう。

「多分だけどな、その遊女がお前にそんな嘘を言ったのはお前に腹を立てたからだ」
「あの遊女からは調査対象の話を聞いただけで、怒りを買うような事は……」
「そう! それだ!」

 ビシッ!
 そんな音が聞こえてきそうな勢いで鳴海はライドウを指差す。

「ライドウ! お前は確かにデビルサマナーとしては一流かも知れない。 だが、探偵としてはやはり見習いの域を出ない! それはお前が探偵として非常に大事な要素に欠けているからだ!」

 今度はドーン! なんて音が聞こえてきそうな勢いで鳴海は告げる。
 或いはバーン! でも良いかもしれない。

「探偵といして重要な要素、ですか」
「そう、それは対人交渉能力だ!」

 ズガガーン! と言い切った。
 渾身の一言だったと言う自負が鳴海の表情からも伺える。

「……?」

 だが、言われたライドウはさっぱり分からないようだ。
 言われた意味も、何でそんなに勢いづいているのかも。

 温度差によって歪んだ空気が事務所をしばらく支配する。

 やがて、鳴海のほうが場を仕切りなおすために咳払いを一つして、自分の椅子へと腰掛ける。
 その際、先程の大人の笑みが反転して拗ねた子供の顔になっていたのを、ライドウは見なかったことにした。

 と言う訳で、やり直し。

「あー、つまりだな。 ライドウ、お前はその遊女から事件の話だけを聞こうとしたわけだろ?」
「はい。 他に尋ねるようなこともありませんでしたし。 だから一体彼女が何に対して腹を立てたのか……」
「分からないってか? だけどなあ、ライドウ。 そんなのは至極簡単な話だぞ。 おまえ自身も既に彼女が腹を立てた理由を言ってるんだぜ」

 鳴海の言葉にライドウは黙り込む。
 しょげている訳では、もちろんなく、自分の言葉を反芻して答えを探しているのだ。

『まったく、持って回った言い方をしおって。 心当たりがあるのならばさっさと言えばいいものを』

 後ろで鴉が不満そうに唸る。
 もっとも、鳴海にはただ「カァ」と鳴いたようにしか聞こえていないが。

 とは言え、例えその『声』が聞こえていたとしても鳴海が素直に答えを教えていたかは怪しい。
 鳴海はただニヤニヤと笑いながら、ライドウの答えを待っている。

「二つほど原因を見当つけました」
「へえ。 言ってみなよ」
「一つ目は事件の話そのものが対象を不愉快にさせた可能性。 実際今回の事に対してあの女性だけでなく他の遊女も憤りを覚えているようでしたから、事件の話を持ち出したことで怒りを買った可能性もありえると思います。 ただ、そうなると話を聞き始めた頃から自分に対して怒りの感情を向けて、初めから話にならないはずです。 ですが、実際には途中までは事件の話を聞くことが出来たので、この一つ目の可能性は低くなります」
「ふんふん、なるほどねえ。 それじゃあ二つ目は?」
「自分が彼女の話を聞かなかったこと……いえ、自分が聴きたい話しか聞こうとしなかった事が原因ではないかと。 見ず知らずの自分と長々と話す事など無いと考えていましたが、逆説、見ず知らずの自分に自分勝手に話されれば腹を立てるのも道理ではないかと」

 そのライドウの答えに、鳴海はニヤニヤをニヤリに変えた。

「六拾点だ」

 上司から評された決して高くは無い点数をライドウは相変わらずの能面で受け止める。

「まだまだ、と言う事ですか」
「ああ、まだまだだ。 だけどまあ、今のライドウからしたらこの点数はむしろ満点なんだろうな」
「気遣いは無用です」
「気遣いって訳じゃないよ。 まあ、そう受け取っちまう辺りが残りの減点対象なんだけどな。 だけど、相手の心情を考えるまで至ったのはたいしたもんだ。 これも俺の教育の賜物かな」

 その言い様ではまるでライドウが人の気持ちを察せないヤツに聞こえるが、ライドウ自身は特に反論しなかった。自分でもそういう面があると言う自覚があるのかもしれない。
 何分、長年ライドウとなるべく修練のため俗世から切り離された生活をしてきただけに、世俗には疎くなる。もちろん、知識として、あるいは修練の一環としての心構えくらいは学んでいるが、実際に一般の社会に紛れて生活するとなると、齟齬が生じてしまう。特に人と人との繋がりやそこに生じる心の機微となるとどうしても不得手だ。

 鳴海はそんなライドウが、それでも自分で頭を悩ませ、相手が怒った理由を理屈ではなく感情面で考えた事を評価して、現段階のライドウにとっては満点だと評価したのだろう。

 もっともライドウ自身はそうと知っても余計な気遣いだと感じるかも知れない。涼しげな顔をしているが、ある程度の矜持と負けん気、それに向上心がなければライドウを名乗る事など出来ていないだろう。

「まあ、今回は特別に俺が答えを教えてやるとするか」

 そう言うと鳴海は椅子に深く座りなおし、綺麗に髭を剃ってある顎を撫で、机の上に両肘をついて指先を組んでみせる。
 まるでもったいぶるかのような態度。
 とうか、もったいぶった態度だ。

「まあ、正解に近かったのは後者だな。 確かに相手の女はお前が一方的に話をするのが気に食わなかったんだろうさ。 その子とが分かっただけでもお前にしては上出来、見事に高得点獲得だ。 んで、減点と言うか欠点は別に見ず知らずの相手だったからに限った話じゃない。 誰だって自分の話を聞いてもらえずに一方的に話をされたら良い気分はしないだろ。 例えそれが気心知れた相手だとしてもだ」

 そこまで言葉を挟む余裕も与えずに一方的に言い切った。
 もっとも、言葉を挟む隙があったとしても、ライドウには挟むべき言葉を持ち合わせていなかった。

「むしろ見ず知らずのお前が、調査対象の話を持ちかけてきたときは不愉快以上に期待があったと思うぞ。 何せあの件に関しては遊女たちも不愉快だった見たいだからな。 解決してくれるならば万々歳だろうし、そうでなくても普段発散できない不満を晴らす愚痴を吐ける絶好の機会だったろうからな。 ところがその相手は愚痴を聞かずに一方的に自分の話ばかりだ。 そりゃあ腹も立てて一つ意地悪をしてやろうとも思うさ」

 どや、と鳴海はライドウの様子を見る。

「クァ」
「うん? なんだいゴウトちゃん。 ははん、さては俺の素晴らしい助言に感心しちゃってるんだな」
「クゥア」
「はははは、いやそこまで言われるとさすがに照れちまうよ」

 何度も言うが、ゴウトの言葉を聴けるのは魔に精通したものだけだ。
 そして、鳴海にはゴウトの言葉を聞けない。
 鳴海がゴウトの言葉を理解しようとするなら、雰囲気をで何を言っているのか感じ取らなければならないわけで、それこそ『人の気持ちを汲む能力』が必要となってくる。

 ちなみに、前のゴウトの言葉を訳すと……。

『何故、葛葉ライドウともあろう者が遊女の愚痴などに付き合ってやらねばならぬ』

『阿呆が、貴様に感心することがあるとすれば、そのおめでたい頭と性格くらいなものだ。 結局貴様も全く相手の気持ちを考えてなどおらぬでは無いか』

 と、なる。

 そんな間抜けな会話が全て聞こえているライドウは、能面のような無表情のまま黙り込んでいる。こうしていると本当に出来のよい面でも被っているかのようだ。
 しかし、その眼は面にはありえない意思がはっきりと見て取れる。

「つまり相手の女性が話し終わるのを待つべきだったと言うわけですか?」
「ただ、話を聞くだけってのも相手を満足させられるが、それじゃあ中々こっちの要求を通しにくいだろ。 相手の話を聞きつつ上手いこと会話の流れを自分の話題のほうへとずらす訳だ」

 もっとも逆に会話の流れをどんどんずらしていくってのもあるけどな、とどこか上の空な笑みで付け加えた。
 つまりはさっき大家さんに使用した技がそれなのだろう。

「しかしまあライドウにそこまで要求するのは難しいか?」

 その言葉は人によっては挑発ととってもおかしくない言い様だった。
 しかし、言われた相手は若くても葛葉ライドウの名を継いだ者。そう易々と心かき乱したりは――。

「経験不足なのは認めます。 しかし必要な技能である以上は必ず習得して見せます」

 あっさりと乗った。
 その眼には面ではありえない反骨の意思が見えている。

 見た目の涼しさとは違い、思ったよりも矜持が高いようだ。

『ふん、当然だ。 会話術程度、ライドウの名を継ぐための修練に比べれば容易な事だ』

 まあ、矜持の高さはお目付け役を見ていると納得させられる。

 鳴海はその答えに満足気に快心の笑みを浮かべる。

「よく言った、ライドウ。 それでこそ我が鳴海探偵社の社員だ! ならば、所長の俺自らお前に交渉のコツと言うのを教えてやろう」

 何がそんなに嬉しいのかと聞きたくなるくらい、高揚した様子の鳴海に、しかしライドウは疑問を挟む事は無かった。それよりも「交渉術を教わる」という点に意識が集中してしまっている。

「良いかライドウ。 まず最大の基本は相手の話を聞く事、これはさっきも言ったけどな、ただ聞くだけじゃ駄目だ。 相手の話題から相手の性格を分析してどんな話を振れば良いか、どんな受け答えをするかを考えるんだ。 そうする事で後々、自分の要求を通しやすくなるからな。 言っておくが、相手の話に相槌を打っているだけでは駄目だぞ。 それじゃあ会話とは言えないからな。 時には苦言を呈する事も大事だ。 そこら辺のサジ加減は結構難しいんだけどな。 そんな感じで相手の機嫌が良くなってきたところでこっちの要求を出すんだ。 要求の内容によってはそこから更にお互いの妥協点を探り合う交渉が始まったりもするもんだが、こっちはよっぽど無茶な要求するか相手がしたたかでも無い限りは大丈夫だろうけどな」

 一気に捲くし立てられた情報を、それでもライドウは整理し吟味する。
 そして思い返すのはそもそもこの話題になる原因となった遊女との会話だ。

 いきなり不躾に写真を見せて、この女を知らないかと尋ね、相手の話を遮るような形で結論だけを求めた。

 なるほど照らし合わせれば、自分の態度は明らかに落第点だ。
 大見得切ったが、果たしてここから挽回はなるものか。

「まあ、あまり難しく考える事じゃないさ」

 ライドウの悩みを汲み取ったのか鳴海は先程の高揚した様子からうって変わって穏やかに言う。

「こういうのは最終的にモノを言うのは経験だ。 実践を積んでいくのが一番だ。 そうすれば頭でごちゃごちゃ考えるよりも自然に言葉が出てくるもんさ」
『弁の達者なこやつと言うのも、いまいち想像がつかんがな』

 まあその通りだった。
 何事も実践だということも、弁の達者なライドウが想像付かないと言うのも。

「さて、ライドウ。 そんな初心者なライドウに親切で優しい俺が実践の機会を与えてやろうじゃないか。 今から銀座の竜宮に行ってツケの支払いを先延ばしして貰えるように交渉してくるんだ。 ああ、可愛い所員のためにわざわざ自分が汚名を被ってまで機会を与えるなんて、俺は何て優しいやつなんだろうな」

 そういう鳴海の笑顔は、誰がどう見ても強かな者のソレだった。








戻る