あなたのことが好きな物はなんですか?




   

 それは何度目の睦言の時のことだったろうか。
 深い森の奥、轟々と落ちる滝。
 人が触れればあっさりと押し潰されるだろう大瀑布の元、悠々と水浴びをする影が1つ。
 水の絶壁によりその姿ははっきりと見ることはできないが、それでも水壁の向こうに見える人影は決して大柄ではない、むしろ細いく小柄である。
 人体どころか鉄板ですらもひしゃげるであろう轟々と落ちる濁流が、しかしまるでその人影の部分だけ水の壁が避けているかのように――裂けているかのように、人影は押しつぶされることもなく、微動だにせずに立っている。
 いや、全く動いていないわけでは無さそうだ。
 片腕を伸ばし、もう片方の腕で撫でるような動作。
 かと思えば頭と思われる位置に両手を持っていて動かすような動作。
 要するに水浴びをしているようだ。
 異常な場所で行われる日常的な動作。
 まるでおとぎ話のよう一幕のような光景にも見えるが、しかし少し引いて見てみれば凄惨極まりない惨状が広がっていた。
 砕けた岩、なぎ倒された木々、抉られた大地。
 まるで爆撃にでもあったように破壊しつくされた光景――まるで獣が獲物を食い散らかしたような光景。
 今まで幻想的にすら見えていた物が、凄惨な光景へと様変わりしていく。
 その破壊し尽くされた光景の中にも壊れずに残っているものがあった。
 一人の白髪の少年が横たわっていた。
 死体――ではない。
 それは胸を大きく上下させ、顔を苦痛で歪ませながら大きく息をしていることからも明らかだった。
 そしてその少年もまた異常であることも明らかだった。
 大きく歪ませた顔には、その幼い顔立ちの半分を隠すのではないかという禍々しい入れ墨。
 そして彼の周りに散らばる大小様々な刃物――これもまた残らず破壊し尽くされている――が散らばっていた。
 そして何よりも苦しげながらも閉じられることのない彼の瞳――それが彼の異常性を何より物語っていた。
 黒く漆黒の全てを飲み込みぐちゃぐちゃに綯い交ぜにした、ともすれば純粋にも見えてしまう瞳。
 この少年を唯一壊れていないと言ったが、それは今この場で破壊されていない、というだけというのが正しいのかもしれない。
 何よりもどれよりもこの少年こそが――この場で一番壊れた存在に思わせる。
 やがて、ゆっくりと滝の中から人影が進み出る。
 やはり、その姿は小柄で何よりも細く華奢な姿だった。
 だが見る者がよく見ればその真逆に限界いっぱいまで引き締められた強靭さが伺えるだろう。
 惜しげもなく晒された裸体でその人物が女性であることも分かるが――なぜかその認識には違和感を覚える。
 愛嬌がある可愛らしい顔なのだが、その顔に浮かべる獰猛な獣の如き笑みが全てを反転させている。
 色々と色んな意味で目を引く人物ではあるが、特に目を引く箇所が2点。
 一つはその長く細く靭やかな両腕だ。
 常人のそれよりも遥かに長い腕は、細く引き締まった体の中でも特に限界いっぱいまで、詰め込めるだけの力を詰め込んで引き締めたような異常さがあった。
 そしてもう一つは、足首まで届こうかという長い長い黒髪だ。
 美しく伸びた長髪は今まで水を浴びていたということもあり、艶やかな光沢を放ち、周りの悲惨な現実を忘れて、また幻想の中に引き戻されそうになる。
 彼女はゆっくりと、しかしながら隠そうともしない楽しそうな足取りで横たわる少年へと向かう。
「ぎゃはは、いつまで伸びてんだよ。 お前もさっさと起きて水浴びでもしてきたらどうだ」
「ふざ……けん……な。 今度こそ……今は無理でも、ゼッテーにいつか殺すからな……!」
 男勝りな口調で、女性の声でありながら男性的な声音で笑う彼女に、少年はわずかに頭を動かして睨みながら呪詛を吐く。
 息がまだ整っていないため、言葉は途切れ途切れだが、込められた殺気は本物だ。
 しかしその殺気の直撃を受けてもなお物ともせず、その程度など美味だと飲み込んでしまうようにむしろ楽しそうな笑みを深めている。
「ぎゃは、それじゃあ僕との付き合いは随分と長くなりそうだな。 ひょっとしたらこれから一生かもな。 何だ? 人識ってば僕にプロポーズでもしていたのかな。 ぎゃははは、いやーん、出夢照れちまう。 生憎と肉体は女でも僕は男だからな、その気持は受け取れないねえ。 もちろん僕の中の可愛い妹もお前に上げるわけにはいかないな」
「ほざけ、お前との縁なんて速攻で断ち切ってやる。 俺が成人する前までには絶対にだ」
 ようやく回復したのか、体を起こせないままだが、息が整った白髪の少年――零崎人識は目の前の彼女に殺意まみれの宣言をする。
 いや、彼女ではなく、彼だ。
 彼の発言はただの妄言ではない。
 彼はその体に収まった兄にして人殺を生態とする人格、匂宮出夢。
 そして今はその体の奥で眠っているであろう妹にして探偵を生業とする人格、匂宮理澄。
 悍ましき狂気が生み出した恐るべき凶器――殺戮奇術の匂宮兄妹。
 しかし、とは言え、零崎人識が別に彼の標的というわけではない。
 もしそうならばこんなのんきな掛け合いなどしていないだろうし、何よりも(人識は否定するだろうが)おそらくもう人識は生きていないだろう。
 彼らにとってこのやり取りは、そしてその前の殺し合いですらただのじゃれ合いであり、親睦を深める交流なのだろう。
「だけどな、人識。 お前だって僕とのお遊びでステップアップしてきているんだから全く無駄なわけじゃないだろう。 現にさっきだって僕相手に結構良い一撃を与えられそうになったじゃないか。 まあ何でか一瞬、動きが鈍って呆気無く返り討ちにあったわけだけれどもな」
 そう言って自分の首をトントンと叩く。
 先程まで行われていたバトルの最中に、人識が上手く出夢の意表を付き、その首に一撃を加えられるかもしれない瞬間があった。
 だが、結局は出夢の言うとおり、何故か人識の動きが鈍りそのチャンスを不意にした。 もっとも、動きが鈍らなかったところで恐らく出夢は対応し、返り討ちにはしていただろうが、それでも僅かながらでも手傷を追わせることはできたはずだったのにだ。
「そう言えばあの時は何で動きが鈍ったんだ? 言っておくけど、いまさら僕相手に手心を加えたっていうんだったら、容赦無くこの場でお前の望み通りに縁を切ってやるよ」
 この場でお前を喰らってやる。
 そう告げる出夢から発せられた殺気は、先程の人識がぶつけた物など比べ物にならない凶暴な圧力が籠もっていた。
 殺気を逆に返された人識はしかし――殺気をぶつけられたという反応にしては妙なものだった。
 バツが悪そうに、顔を背け苦々しい表情を浮かべている。
「……だからだよ」
「あん? なんだって?」
「だから! お前のその髪を切っちまうかと思ったら、ちっと勿体無いと思ったんだよ!」
「…………へ?」
 やけくそ気味に人識が答えた内容に、完全に想定外のところからの衝撃であまりに間の抜けた声が出夢から漏れる。
 しばし呆然。
 やがて全身を細かく震わし、やがて耐えきれず
「ぎゃは! ぎゃははははははははははははははははは!」
 爆笑した。
 大爆笑だった。
 轟々と落ちる瀑布の音もかき消すほどの爆笑だ。
「何だ、人識。 僕のこの髪に見惚れてたのか! もしかして長い髪が好きだったのか? それならそうと言ってくれれば、僕だって頑張ったご褒美の内容を考えてあげたんだぞ! ほれほれ」
 嬉々として出夢は倒れている人識に向かって自分の髪を垂らして弄び始めた。
「わぷっ、やめろ。 くっそ、だから言いたくなかったんだよ。 って、いい加減にしろ!」
「ぎゃは、もっと頑張れたらこの髪をお前の体に巻き付かせてやるよ」
「アホか! どこの誰がそんな変態みたいな真似をするか!」
 どこの誰と言われれば、無人島暮らしをしていた剣士とその相棒の奇策士がやっていた。
 しかしそれは人識にも出夢にも関係のないことである。
 というかこの世界には関係のないことである。
「ぎゃはは、妹のためにも伸ばしっぱなしにしてた髪だけど、人識がそんなに長い髪が好きとあっちゃー、これからも伸ばしていくしかねえな」
「くそがっ、ぜってぇにその髪には傷一つ付けずに殺してやる」
 吠えてみるが言っている内容が完全に墓穴を掘っていた。
 その後しばらくはバトルの最中にからかうように出夢が髪を人識に向けては人識がキレるとというのが続くことになるのは当然の帰結だった。
 


   

 そこで匂宮出夢は覚醒する。
 彼の鍛え抜かれあ状況認識能力は夢現を許さずに、ここが森林の中ではなく、新しく拠点にしているアパートメントであることを把握する。
 懐かしい夢だった。
 とっくの昔に壊れたはずの思い出を夢に見るなど、やはりどうも自分は本調子ではないらしい。
 そう考えながら出夢は洗面台へと向かう。
 洗面台の鏡に映る出夢の姿は夢の中での出夢とはだいぶ変わっていた。
 まず当然ながらその体は過去のものよりも大きくなった。
 とは言え、それについては相変わらず細く一見には華奢にも見える体格は相変わらずなので、変化というほどの気はしない。
 それよりも分かりやすい変化は髪だった。
 夢の中の出夢の髪は自身の身長ほどにも伸びていたが、今は肩口よりも上のところでバッサリと切れている。
 念願の《最強》とのバトルの中で失った髪。
 攻撃を避けきれず、髪をごっそり持っていかれたのが記憶に蘇る。
 といよりも、出夢の記憶がはっきりと認識しているのはそこまでくらいだった。
 髪を持っていかれたとき出夢は――激高したのだ。
 感情が制御できる閾値を超えて、意識するまでもなく《最強》へと迫った。
 その際に元の雇い主である狐さんについて話してしまい、その正体に察した《最強》もまた勝負を急いだのはなんとなく憶えている。
 しかし、何故自分は髪を消されただけで、あそこまで我を忘れたたのか。
「ぎゃは、そんなのは決まってる。 あの髪は理澄のためのものでもあったんだからなあ」
 鏡に映らない夢の中との最大の違い。
 最愛の妹がすでに彼の体の中にはいない。
 《最強》とのバトルの前に彼の妹は死んだのだ。
 その形見とも言える髪を吹き飛ばされたのだからそれは怒り狂うし、本調子じゃないのも当然だ。
 とりあえず、結論が出て納得したところで、出夢は自分の部屋に向かってくる気配を感じ取った。
 見知らぬ気配ではない。
 むしろ忘れられない気配であった。
 それは妹を失い《最強》とのバトルにも大きく関わってきた人物。 それが何故か自分のところに来ていることを出夢は本人の来訪より随分前に気がついていた。
 わからないことがあるとすれば、その人物がわざわざ自分を訪ねてくる理由だ。
 その人物との間にあったあれこれはすでに先月の事件の締めくくりで終わらせていたはずだ。
「ふん、僕とあのお兄さんの間にある問題と言えば、あとは狐さんか人識関係だろうけどな」
 うんざりとした気分ではあるが、まあ彼には借りもある。
 協力できる範囲でなら面白そうであれば協力してやっても良いか、と結論付けると、あとはどのように出迎えるかを考え始めた。
 それでもう、夢のことも髪を失って怒り狂った内容についても今後出夢が考えることはなかった。

 先程の夢の影響か、零崎人識が好きだったと言っていた長髪を失ったからだろうか、という結論を出しかけたことについは考えようともしなかった。
 




寝言

戯言シリーズが好きな人と話した際に
「何故、出夢くんは長髪を良しとしていたのか」という疑問から生まれたお話でした。
無難に考えれば「妹のため」なのでしょうけれども、
そこは妄想たくましく「かつて人識が長い髪が好きだったから」というのを膨らませてみました。
皆さんはショート派? ロング派?
私は阿良々木くんの趣味と同じく色んな髪型に変化があるのも好きです。

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