世の中そんなに甘くない?
   そんなこと言えるほど世の中を味わったのか?




   

 その日、ぼくは珍しく遠出をしていた。
 九州は福岡の博多である。
 いや、最近で言えば玖渚の用事だったり、哀川さんに拉致られたりでそれ程珍しくは無くなっていたかもしれない。ぼくは自分自身のことをインドア派で出不精だと思っていたが、京都に引っ越してきてからまだ一年も経っていないのに絶海の孤島から山奥の研究所まで随分といろんな所に出向いたものだ。
 そのどこでも死にかけているというのが困りどころだけど。
「死ななかっただけマシなのかな」
 実際に死んでしまった人達のことを思えば――なんて、彼らは彼女らはそんな風に思われたくはないか。
 それにしても『死ななかっただけマシ』なんて言葉が、たとえ戯言でもぼくの口から出てくる日が来るとは思わなかった。 一年前どころか一ヶ月前のぼくは死に対して何の忌避感も抱いては居なかった。 それどころか死というモノに一種の憧憬すら抱いていた。
 そんなぼくが死にたくないと、そう思うような一件を先日に体験することとなった。
 奇しくも『死なない研究』なんて言うものに関わったために巻き込まれた事件は、ぼくに強く死を意識させた。
 今まで散々逃げ続け目を背け続けた来た『死』と向き合うことになったぼくは、強く『死にたくない』と思うようになった。
 相変わらず死んだほうがマシだと思うことはあるし、ぼくのような奴は死んだほうが良いとも思う。
 それでもぼくは死にたくはない。
 それくらいに先日の事件はぼくにとって大きな意味を持っていた。
 こうしてぼくが遠出しているのも、その事件の時の約束があったからだ。
 その事件の最中にした、紫木一姫――姫ちゃんとの約束。
 アルバイトが終わったら博多に旅行に行こう。
 他愛もない世間話での約束だったけれども、それでも珍しく姫ちゃんとした真面目な約束だ。
 あの後、あんなことになってしまったけれども、だからこそその約束くらいは守りたいと思えたのだ。
「師匠ー。 その言い方だと何だか姫ちゃんが死んだみたいに聞こえますよ」
「事実をボカして脚色して語るのも戯言の基本だよ」
「姫ちゃん、そんな毒にも薬にもならない知識なんていりませんよー」
「こんな時だけ正しい慣用句使ってるんじゃねえ」
 本当にこの娘はワザとやってるんじゃあるまいな。
 ぼくは隣を歩く小柄な少女に対して、疑惑の目を向ける。
 姫ちゃんは口は文句をたれた後らしくひん曲がっているが、顔を見る限りは随分と楽しそうだ。
 まあ、そりゃあそうだろう。 今回は姫ちゃんの希望した場所に旅行に来ているのだ。 これで不機嫌になる云われはない。 もしそんな事態が起きるとしたら、それは同行者であるぼくの責任である可能性が非常に高い。
 うん、そう考えてみると今後の展開で姫ちゃんが不機嫌になるというのも決してありえなくはないように思えてくる。
「どうしたですか、師匠? そんな急に何度も頷いて」
「いやいや、別にどうもしないさ。 今夜の宿を安く済ませるためにカプセルホテルとかで済ませたら姫ちゃんが激怒するんだろうなあ、なんてそんな事考えてないよ」
 あ、姫ちゃんの目が細まって視線の温度が低くなった。
 未だに暑さが残る時期だけに温度が下がるのは歓迎だが、その割にぼくの体からは嫌な感じの汗が流れ出していた。
「ま、まあ、今夜の宿のことはさておいて、姫ちゃんはこれから行きたい場所とかあるのかな?」
「んー、姫ちゃんも福岡には来たかったけど、特に行きたい場所があるわけじゃ無かったですからねー。 あ、でもでも鵜鷺ちゃん達にお土産はお願いされたですよ」
「着いて早々にお土産の話かよ」
 それはもう旅行ではなく買い物をしに来ただけじゃないのか。 流通が発展した現代ならば京都でだって九州の名産品を買うことが出来てしまうのだから、わざわざ現地にまで来る必要もなかったのではないだろうか。
 なんて、姫ちゃんの本当の目的はお土産でないことでは分かっているんだけれどもね。
 本来の姫ちゃんの師匠である市井遊馬の出身地であるここに、ただただ単純に来たかったのだろう。
 ぼくは姫ちゃんと市井遊馬との間にどんなことがあったかは知らない。
 深く踏み入るべき話ではないだろう、とも思う。
 それは知るべきものが知っていれば良い話なのだ。
 それでもまあ、今回の旅行の目的を考えれば、これだけは一応聞いておくか。
「ねえ、姫ちゃん。 市井遊馬の出身地って博多のどこら辺かってのは分かる?」
「え? あ、いえ、姫ちゃんもそこまでは聞いてないです」
「んー、そうか。 次はそこを目指そうかとも思ったんだけど」
 姫ちゃんも折角来たんだから、どうせなら市井遊馬と縁のある場所へ行きたいだろうと思ったんだけどなあ。 どうしたもんか、市井遊馬がここに住んでいた頃の知り合いとかでも探してみるのも手かもしれないけど、その生き方を考えるに知り合いに当たるというのも期待できそうにないよなあ。
「あの師匠」
「ん? どうしたの姫ちゃん」
「姫ちゃんは確かに遊馬さん出身地ということで、博多に行きたいと言いましたが、それだけが目的というわけじゃないんですよ」
「そうなの?」
 他にこの博多に姫ちゃんの目的があるのか。
 話に聞く限りでは姫ちゃんの人生において市井遊馬以外では哀川さんと澄百合学園くらいしか関わるモノが無かったと思うのだけど。 それともぼくが知らないだけで、他にも姫ちゃんにとって大事な思い出となる何かがあるのだろうか。 偶然にも市井遊馬の出身地であるこの博多と関係のある何かが。
「いえ、そういうのではありませんよ」
 しかし、姫ちゃんはぼくの考えをあっさりと否定する。
「でも、姫ちゃん。 だとしたら一体他の目的って一体なんだい? 生憎とぼくには検討がつかないんだけど」
「もー、師匠は本当に忘れっぽいですね。 ちゃんとあの時言ってたですよ」姫ちゃんは呆れたように、だけど少しだけ笑いながら言う。「旅館とかに泊まって温泉に入って、普通の旅行をするって」
「――それが目的?」
 そんな普通の、当たり前なことが?
 いや、普通で当たり前だからなのか。
 ぼくらのような当たり前のように普通じゃない者にとって、あまりにも高望みな願い。
 ぼくのような既に手遅れな人間はもう望むべくもないことだけれども、それでも姫ちゃんならば、まだ間に合うかもしれないこの少女ならばそれは手に入れられるかもしれない。
「うん、そうだね。 そうだったね」
 だからまあ、彼女のことを引き受けたぼくの立場としてはその願いを叶えるために協力する責務がある。
 いや、そんな殊勝なもんじゃない。
 ただ自分にできないこと他人にやらせようという、不誠実で腐敗した思いからだ。
 分かっているのだ。 ぼくは姫ちゃんをそんな風に自分のエゴを完遂させるために利用していることを。
「それじゃあ、まずは泊まる旅館を探すところから始めようか。 出来れば温泉付きの場所があるといいけど」
「師匠ー。 そういうのは普通旅行する前に予約とかしておくものですよ」
 それでもぼくは身勝手に思うのだ。 押しけるように願ってしまう。
 どうか、姫ちゃんには普通に幸せになって欲しいと。
 




寝言

間に合いませんでしたが、八月ということもあり姫ちゃんのSSです。
もしも、仮に姫ちゃんが生き延びていたら、そして約束通りに博多へ旅行に行けていたら、という妄想で書きました。
本当ならばもっと、あちこち観光に行ったりする話も書くべきなのでしょうけど、今回はこれくらいでご勘弁を。

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