始まらなくても終わりはある。




   

 人は生きることを前へ進んでいると表現する。
 時の流れを意味するのか、それとも生物の成長を示唆しているのか、あるいは指針となる目標へ近づく行為をしているのか。
 そのどれにした所で前へ進むことが前提としている。
 後ろへ進むことなんて考えられていない。
 前へと退くことなんて考えられていない。
 どんな人生を歩むかは本人が決めることとは言っても、歩むことは決められてしまっている。
 それがどんなに茨の道であろうとも無関係に。
 それがどんなに外れた道であろうとも無慈悲に。
 歩む。
 歩まされる。
 それは自他共に認めるところの後ろ向きで停滞している人生のぼくですら変わりはない。
 どれだけ後ろを向いていようとも、停止していても関係なく進んでしまう。
 それは時間の流れだったり、身体の老化だったり、目標の遠さを痛感したりだ。
 あとはまあ、一番わかり易い話しとして年をとるとか。
 そんな訳で本日はぼくの誕生日だった。
 一応、ぼくにだって誕生日くらいある。
 そして、その当日にぼくは拉致された。
 誘拐である。当然、犯罪行為だ。
 確かに今までのぼくの人生は波乱に満ちたものだったが、だからと言ってその人生が始まった日に、犯罪に巻き込まれるというのはあんまりではないだろうか。
 ぼくがそんな風に自分の人生を嘆いていると、ぼくを拉致した真っ赤な犯人が陽気に肩を叩いてくる。
「よお、いーたん。 せっかくの誕生日に何を暗い顔してんだ」
「誕生日だからこそ、少しぼくの人生っていうのを振り返っていました」
 例え強制的に前へと歩むことを強制される人生とはいえ、それくらいの自由は許してもらいたい。
 っていうか、なんでぼくが許しを請わなきゃいけないんだろうか。
「ハハ、相変わらず後ろ向きだな。 どうせならこれからの人生を思い描いたらどうだ」
「相変わらず前向きですね、哀川さん」
「あたしを苗字で呼ぶなって、教訓を誕生日プレゼントにしてやろうか」
 ただでさえ悪い目付きを更に険悪に鋭くして睨まれた。
「っていうか、潤さんからの誕生日プレゼントは既に受け取っていますからね。 せっかくですけれど遠慮しておきますよ」
 ぼくは名前を言い直して肩をすくめる。
 まったく、何時まで経ってもこのスリルがたまらないんだから、とんだM野郎だ。
「んー? あたし何かいーたんに上げたっけか?」
「今回の烏の濡れ場島への招待は、それなりには嬉しいですからね」
「だったら、もうちょい嬉しそうな顔ができないもんかねえ。 それじゃあプレゼントのしがいがねえよ。 ん?」
「ちょ、痛いですってば」
 ヘッドロックをかましてくる哀川さん。
 傍から見れば仲良くじゃれあっているように見えるのだろうし、実際その通りなのだが、ぼくの頭に走る痛みはあまり和やかなものではない。毎回毎回ミシミシと音を立てている。
「まあ、喜色満面のいーたんってのも気色悪いもんがあるけどな」
「だったら見逃してくださいよ。 そのうち頭の形が変わりそうです」
 ようやく開放された頭をさすりながらぼくは抗議を発する。
「でも、感謝してるっていうのは本当ですよ。 久しぶりにあかりさんやひかりさん、それにてる子さんに会えるわけですし」
「このメイドマニアめ」
 ジト目で睨まれてしまった。
 何気に哀川さんにしてはレアな表情だ。
 それを引き出したのが自分だと思うと中々に誇り高い気分になる。
 いや、もちろん戯言ですけどね。
「そんなにメイドが好きなら、さっさとイリアの誘いに乗って島の住人になれば良いじゃねえか。 お前の嫌いな世界から離れて、お前の好きなメイドと過ごせるんだから天国みたいなもんだろ」
「まあ、そうなんですけどね」
 人間不信の厭世家が過ごすにはあの島は確かに最高だ。
 それなのにぼくが頑なにも拒んできた理由はなんだろう。
 少なくとも本土に留まらなければならない理由よりは少ないと思う。
「そうなんですけどね、やっぱりまだ天国に行くには早すぎるかなと思いますし」
 世が厭だからと言って、そんなことが浮世から離れる理由にはならないだろう。
 ぼくのような凡人には俗世がお似合いだ。
「まあ、確かにいーたんには天国は似合いそうにねえな」
 そう言って、いつものようにシニカルな笑みを浮かべる哀川さん。
 そんな哀川さんを見て、ぼくは思う。
 貴女も天国が似合わない人だと。
「以前も言いましたけど、ぼくは今までのことを忘れたくは無いんですよ。 ぼくみたいな記憶力の悪い奴が、あんな島に住んだら簡単に忘れてしまいます。 確かにぼくは厭世家かもしれませんけど、忘れてしまうよりは世俗に塗れてる方がよっぽどマシですよ」
 辛かった思い出を楽しい思い出にしたいわけではない。
 悲しい思い出を悲しい思い出にしたいわけではない。
 汚い思い出は美しい思い出にしたいわけでもない。
 嫌な思い出を好きになりたいわけでもない。
 辛いものは辛いし、悲しいものは悲しい。
 汚いものは汚いし、嫌なものは嫌だ。
 それらはきっと忘れてしまったほうが楽なのかもしれない。
 だけど、忘れてしまったらきっとぼくはまた、思い知ったことを忘れてしまう。
 ぼくは生きているのだということ、忘れる。
 それは嫌だ。
 ぼくは死にたくない。
 だから、ぼくは天国に行くつもりは今のところ無いのだ。
 もちろん人間失格が居座る鬼どもが蠢く地獄に堕ちるつもりもまだ無い。
 そんなものはぼくには必要ない。
「帰る家が、ぼくにはありますから」
 過去も思い出も積み重なった場所がぼくにはある。
 思い出を持ち帰れる場所がある。
 罪と汚濁に塗れたぼくを受け入れてくれる人がいる。
 それがある限りは、ぼくはまだ次の年齢まで生きていることが出来るだろう。
 ぼく自身が過去と思い出に押しつぶされない限りは。
 本当に、生きるっていうのは業が深いものだ。
 戯言でも言ってないとやってられない。
 




寝言

お久しぶりです。
久しぶりに書いた戯言SSでしたが、いかがでしたか?
過去を積み重ねても繰り返さないと色褪せるというのは、私としては非常に共感できます。
……間が開くと戯言が中々うまく書けません。

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