「変わることは容易い。 変わらないことも簡単だ。 しかし成長することは難しい」
「そう言えば子供のままで居ることを許されると思ってるのか?」




   

 ぼくは御伽噺と言うのを子供の頃に読んだ記憶も読んでもらった記憶も無い。それらの話を知ったのはぼくが、本来そういう話に触れる年齢よりも幾つか年を重ねた頃だった。
 だからぼくがその話を聴いたときに抱いた感想は、他の子供たちとは違った穿ったモノだったように思える。もっとも、それは何も年齢だけのせいにするほど、ぼくは自分の捻くれた性格を甘く見たりはしていない。
 兎にも角にもその話の中にはぼくの知らない世界が広がっていた。
 有り触れた悲劇。
 有り触れた悲哀。
 そして、有り得ない幸福。
 そんな物語にぼくは酷く心を揺さぶられた。いや、揺さぶられたなんて生易しいものじゃない。確実にぼくの心は掻き乱された。
 直ぐにでも耳を塞ぎたかった。眼も閉じたかった。

 ぼくは一刻も早くその物語を終わらせたかった。

 そうしないと、ぼくの存在が否定されてしまいそうだったから。
 有り得ない奇跡。
 有り得ない邂逅。
 そして、有り触れた不幸。
 そんなモノに満ち溢れたぼくの人生ものがたりが今にも終わってしまいそうだった。
 だからぼくには、とてもじゃないけれどその御伽噺を認められなかった。
 そう、ぼくはその頃には既に玖渚くなぎさと――あの青色と出会っていたから。
 玖渚とも
 《青色サヴァン》。
 天真爛漫な少女。
 《死線の蒼デッドブルー》。
 冷酷無比な支配者。
 ぼくの唯一無二の友人で――
 憎たらしいくらいに愛している、大好きな女の子。
 幸福と不幸なんていうのはあくまで相対的な評価であって絶対的な価値観で語れるものではないと言うことは明白だが、ぼくとあいつの出会いが誰にとっても不幸なものだったのは否定しようが無い、絶対的な事実なのは間違いない。
 ぼくと玖渚が出会ったことで数え切れない人たちが血を流した。
 玖渚がぼくを愛したことによって数える気がなくなるくらいの人たちが死んでいった。
 ぼくが玖渚を憎んだことによって無数の人たちが壊れていった。
 あまりにも破滅的な関係。
 あまりある壊滅的な関係。
 相互依存ですらない。相互依存にすらなりえない。相互破壊の関係。
 だから、ぼくらの御伽噺は始まる前から終わっていたのだろう。
 本来真っ白であるべき原稿は、手に取った時から真っ黒に書き潰されていた。
 元来真っ白であるべきカンバスは、見たとき時から真っ黒に塗り潰されていた。
 ぼくらがどれだけ物語を紡いでも、物語は黒いまま。
 ぼくらがどれだけ情景を描いても、情景は黒いまま。
 ぼくらが何をしても何も変わらない。
 だから、玖渚はあれほどに白に執着していた。
 汚れが目立つ穢れの無い白色は、だからこそ自分たちの御伽噺を書き込めるのだと信じて。
 汚れ一つ手放さない青色の自分には決し手に入らない色だと信仰した上で。
 ぼくが何一つ映さない、死んだ魚のような目で真っ黒な物語から眼を逸らしていたように、玖渚もこの真っ黒な御伽噺が我慢できなかったのかもしれない。
 それでも、ぼくらにはその忌むべき真っ黒な御伽噺しかなかった。ぼくらがどれだけその御伽噺を憎悪しても嫌悪しても――ぼくらにはその御伽噺を愛するしかなかった。
 じゃないと、ぼくらの物語は終わってしまうから。それだけは何が何でも嫌だから。
 ぼくらはぼくらの物語を終わらせないために、嫌悪し憎悪する真っ黒な御伽噺を愛していた。
 だから、ぼくはあの御伽噺を知ったときに、すぐにそれを否定した。
 多種多様な色彩で描かれた物語はぼくには刺激が強すぎた。思わず心が揺さぶられるほどに。思わず心が掻き乱されるほどに。

 想うほどに心惹かれた――。

 そしてそのときぼくはようやく悟った。ぼくの眼が何も映さないのは真っ黒な御伽噺を見ないようにするためではなく、真っ黒な御伽噺以外のものを見ないようにするためだったんだと。
 見てしまえば、それに心を奪われてしまうかもしれないから。この真っ黒な御伽噺を終わらせてしまうかもしれなかったから。
 そして、ぼくはその悟りにしたがって真っ黒な御伽噺を壊そうとした。
 ――同じ御伽噺を見ている青い女の子を破壊することによって。
 だけど、それでも真っ黒い御伽噺は何も変わらなかった。壊れることも無く、ましてや終わることも無いままに真っ黒い御伽噺は続いていく。
 青い女の子も終わることなく続いていった。だけど女の子はぼくが壊したままだった。
 だから、ぼくは今度は逃げ出した。
 終わらすことも壊すことも出来なかった黒い御伽噺から。
 ぼくが壊してしまった青い女の子から。
「きみは玖渚友のことが本当は嫌いなんじゃないのかな?」
 兎吊木うつりぎはぼくにそう言った。
 それは質問と言うよりもほとんど確認と言うべき言葉だった。
 その言葉をぼくの心の中で繁殖してぼくを壊していく。
 そんな一言ワンワードで済む答えを返すことが出来い。
 言葉によって翻弄して、言語によって奔逸して、会話によって混乱を起こし、対話によって混沌に落とす戯言遣いたるぼくが、何一つとして言葉が出てこなかった。
 虚言を用いて人を惑わした罪人は、その立った一言で裁かれた。
 戯言殺し。
 殺人鬼ですら殺すことの出来なかった戯言は、たった一言の真実で容易く殺された。
 戯言と言う逃走手段を剥ぎ取られたぼくはその時になって、自分の中にあった未消化の感情を思い知らされる羽目になった。
 ぼくが真っ黒な御伽噺から逃げ出した理由。
 ぼくが青色の女の子から逃げ出した理由。
 それはどうしようもない恐怖。
 それはどうにもならない嫌悪。
 だから、だから――。
 ――それが終わりで。
 それが始まりだった――。
 ぼくがどれだけ逃げようがお構いなく、真っ黒な御伽噺は終わりへと突き進む。
 ぼくがどれだけ何をしても終わりを迎えなかったのに、何も変えることが出来なかったのに――真っ黒な物語は終わりを迎えようとしていた。
 あれだけ嫌悪し憎悪した、そして何より愛さなければならなかった御伽噺の終わりは、最後の最後まで真っ黒のままで、何一つ書き記すことを、描き出すことを許さなかった。
「いーちゃん、きらい」
 真っ黒な御伽噺は破り捨てられた。
 青色の女の子の手によって。
 だからお終いだった。
 これ以上続きようが無いくらいに完全なる終わり。
 最初から最後まで救いの無い物語は、絶望の果てに何一つ希望を残す事無く終わりを迎えた。
 ぼくらの破綻した物語は、何一つ始まることも無く終わり続けて終わった。
 それなのにぼくだけは未だに終われなかった。
 御伽噺だけではなく、青い少女すらも終わりを迎えようとしているのに――。
 ぼくだけは取り残されてしまった。
 そんなものなのかもしれない。
 こんなものなのかもしれない。
 これが、かつて何よりも大切な存在を破壊し尽くし、そのことから逃げた罪に対する罰なのだろうか。
 だとしても、これはあんまりだ。
 彼女の呪詛こそがぼくの祝福だった。
 彼女の呪縛こそがぼくの救済だった。
 それなのに彼女はぼくにかけていた呪いを外す。ぼくを解放する。
 絆をほどき、ぼくを放り出す。
 仕方が無いじゃないか。自業自得もいいところだ。因果応報の当然の末路。こんなことは彼女と出会ったときから解り切っていたはずの末路だ。拒絶するな。受け入れろ。目を反らすんじゃない。

 ぼくは大切な女の子を殺して、自分は生きると決めたんだから。

 それにぼくにはやらなければならない事があった。
 かつてぼくが青い女の子を壊して逃げ出した先で出会った友達。ぼくが壊した女の子に良く似た、それだけど決定的に違う太陽のような橙色の友達。そして、懲りずに飽きもせず、反省すらも無いままに再び壊した友達。
 アイツを今度こそ救うとぼくは約束した。
 壊すことしか出来なかったぼくだけ、だからこそ救いたいと思った。
 ぼくと玖渚の黒い御伽噺は終わっても、ぼく自身の物語は終わる事無く続いている。
 だけど、それに何の意味があるのだろう。
 本当に救いたかったものを、助けたかったものを助けることが出来ず、壊して殺すことしか出来なかったぼくが仮に誰かを救い助け出せたとしても、物語が続いていようと、それが一体何になるのだと言うのか。
 ぼくは結局のところ一人で後生大事に敗れた真っ黒な御伽噺を抱えて立ち竦んでいる。
 だけど、あの人はぼくにそんなせめてもの未練すらをも許してはくれなかった。いつもいつもぼくを引っ張りまわして引っ掻き回してくれるあの人は、やっぱりぼくに佇むことを許してはくれなかった。
 取り上げられた真っ黒な御伽噺は真っ赤な炎で燃やされた。
 残ったのは真っ白な灰。
 黒でも蒼でもなく、白。
 玖渚が憧れていた色。
 つまりはこれで白紙と言うこと。リセットされてぼくと玖渚は零になったと言うことらしい。
 無茶苦茶だ。今まで聞いた数々の暴論の中でも間違いなくトップクラスだ。
 それでも戯言なんかじゃない。
 だからぼくも歩き出す。
 あいつの隣に居るために。もうそこはぼくの指定席ではなくなっているのかもしれないけど、ぼくを置くつもりなんて無いのかもしれないけど、それでも構わない。誰かがいるならばソイツを殺してでも奪い取る。アイツが嫌がったって強引にでも居座ってやる。アイツの隣を誰かに譲ってなんかたまるか。

 だって、ぼくの隣は未だにあいつの指定席なのだから。

 だから、ぼくらの物語はやっぱり終わってなんかいない。
「ねえ、いーちゃん」
「ん、なんだ?」
「今日は良い天気なのかな」
「うん、良い天気だよ。 太陽も雲に隠れることなく顔を出してるしね」
 だから暖かいんだねと、玖渚は微笑む。
 橙色の陽光は視力を失った彼女にもその暖かさを伝えることが出来るようだ。
 あの人の言うようにぼくと玖渚の関係が白紙に戻り、零になったとは思えないけど、それでもぼくの隣には玖渚が居て、玖渚の隣にはぼくが居られる。だからあの人の暴論はやっぱりいつものように正論になったのかもしれない。きっとこんなことを言ったら笑い飛ばされてしまうんだろうけどさ。
 ぼくは玖渚の手を握る。
 青色ではなく赤い血が流れた暖かい体温を感じられる小さな手。それを強く握り締めたりはしないけど、それでも決して話さないように、離れないようにしっかりと握る。
「それじゃあ行こうか、友」
「うんっ」
 ぼくらのこの御伽噺の結末がハッピーエンドになるかは分からないけど、
 ぼくと玖渚の二人はお互いの隣でこの青空の下を歩いていく。
 だからこれはきっと幸せな御伽噺。





戻る