殺される可能性と殺す可能性。
   果たして高いのはどちらでしょう?



   

 先月の事件で負った怪我から回復し、ぼくはようやく本日退院することになった。
 入院中に起きた奇野きのさんの来訪以降、狐面の男からの接触は未だにない。だからと言って、もちろん気を抜いて良いはずがない。あの最悪がぼくを敵と呼ぶ以上、必ず近いうちに何らかの接触を試みてくるはずだ。
 今回ばかりは今までのように流されるままに流されるわけには行かない。この19年間の人生の間散々経験してきた、偶然に巻き込まれた厄介事とは訳が違う。相手は明確にぼくを標的として巻き込んできた厄介事だ。
 まずはぼくが取るべき行動は情報収集。とは言っても、ぼく自身のスキルでは調べ物といっても限界がある。そしてその限界には既にたどり着いてしまった。
 だから情報を持っていそうな人に連絡をつけることとなった。あの人ならば狐面の男の情報を持っている可能性が高い。
 もちろん玖渚くなぎさではない。あいつとは今は連絡がつかない状態だし、何よりあいつをこんな事に巻き込むわけにはいかない。本来ならあの人に情報提供を頼むのだって抵抗がある。
 すでにぼくは、狐面の男の手足である《十三階段》の一人、奇野さんがぼくの病室に来訪したときにはみいこさんを巻き込んでしまっている。
 浅野みいこ。隣人。剣術家のお姉さん。とんでもないお人好し。
 ぼくに任しておいてくれれば良いのに、さっさと逃げてくれれば良いのに、巻き込みたくなんかない、のに。
 あの人はぼくを庇って奇野さんと対決した。
 結果的には幸いにして、あっさりと撃退できたものも一歩間違えれば――否、一段間違えていれば取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。
 いつもそうだ。何度繰り返せば気が済むんだ。本当に嫌になる。何度も読み返した物語を強制的に読まされている気分だ。関係のない周りの人間を巻き込んで、あらゆる災厄の中に巻き取って、みんなを不幸にしてしまう。大切な人もそうじゃない人も関係なく、まるで等価に傷つける。すべてを狂わしてしまう。

 だから貴方のような人は死んだほうが良いんです。

 それでもこれ以上最悪な事態に陥らないためにも、最低限の備えはしておきたい。
 本来なら誰も巻き込むべきじゃないんだ。これはぼくの問題なのだから。
 しかし今はそうも言っていられない。
 ぼくは心のどこかで相手が頼みを断ることを願っていたが、幸か不幸か快く了解されてしまった。
 なんでも、向こうもぼくに直接会って話すことがあると言う。言うなれば交換条件みたいなものだ。
 そんなわけで明日、久しぶりの人に会うことになった。明日になるまでぼくができるような具体的な行動は無い。
 無力――ながら。
 無気力――さながらに。
 …………。
 手伝いに来てくれたみいこさんと崩子ほうこちゃんと一緒に荷物をまとめ、すでに慣れ親しんだ退院手続きを滞りなくすませたぼくは、崩子ちゃんが言うところの入り浸りしている病院を出た。
「ん、まずは退院おめでとう、いの字」
「はい、ありがとうございます」
 ぼくはみいこさんに告白して正面から振られてしまったわけだけど、それでぼくらの関係が気まずくなったとかそういうことは一切無かった。その程度で関係が変わるほどぼくとみいこさんの間合いは遠いものでも無ければ、べったりくっついてもいない。着かず離れずの気持ちの良い間合い。
 ぼくが巻き込まれたトラブルについてもみいこさんは何も聞いてこなかったし、言ってもこなかった。聞けばきっと何かをせずにはいられなくなってしまう。余計な手出しをしてしまう。だからみいこさんは自分を律するのだ。
 ぼくにとってそれは正直ありがたかった。これ以上、ぼくと狐面の男の問題にかかわっては欲しくない。みいこさんはこんなことに巻き込まれて良いような人じゃない。みいこさんは普通の世界の人なんだ。
 みいこさんはいつものように朴訥ぼくとつとした態度で接してくれる。それだけでぼくには十分過ぎるほどだ。干渉しすぎず、かといって不干渉ではない。見放すのではなく見守ってくれている。そんなみいこさんだからぼくはこの人を好きになったんだ。
 ……振られた今でもこんことを考えてしまうあたり、やっぱり未練だよなあ。
 ぼくにここまで強い執着があるなんて思いもしなかった。執着なんてものはぼくのような人間には縁が無いと、ずっと思っていた。でも未練という言葉はぼくのような人間にはこの上なく相応しいとも思える。
 戯言ざれごとなんだけどさ。
「それで戯言遣ざれごとづかいのお兄ちゃん、今度はいつまでアパートに泊まっていけるのですか?」
「……いや、ぼくはあのアパートに住んでるんだけどね」
「そうでしたか、それではいつ頃ご実家の病院に帰られるのですか?」
 実家でもねえよ。
 崩子ちゃんは相変わらず容赦がない――と言うよりも、ぼくに対して不機嫌だった。どうやら未だにぼくがみいこさんに告白したことを恨んでいるらしい。
 闇口やみぐち崩子。十三歳の美少女。複雑奇怪なお年頃。
 大好きなみいこさんにぼくが余計なちょっかいを出したのが気に食わないのはわかるが、結果的にはぼくは振られてしまったわけなのだからそろそろ機嫌を直してほしい。
「そうだ、これから御飯でもどうです? 入院中お世話になったお礼に奢りますよ」
 そろそろお昼時ということで誘ってみた。入院中以外でも普段がからお世話になっている二人には、これくらいのお礼はしたかった。
 あまりぼくは人に貸し借りを作るのは好きじゃないので返せるときには返しておきたかった。
 崩子ちゃんの言うように、いつまたアパートを空けるとも限らない。そして今度は帰ってこれるとも限らない。それは決してありえない可能性ではないのだ。特に今のぼくにとっては。
「残念だけど私はこの後バイトが入っていてね、行けそうにない」
「そうですか」
「また今度奢ってくれ」
「そのように」
 今度……あれば良いんだけどな。
「崩子ちゃんは?」
「わたしは特に用事はありません。せいぜい図書館で本を読んだり鴨川で鳩を殺すくらいです」
 家出中の崩子ちゃんが、その知的好奇心を満たすために日課としている図書館通いを妨げてしまうのは少し心苦しいけど、その程度ならば付き合ってもらえそうだ。……その後の言葉はぼくには聞こえなかった。
「なら御飯を一緒に食べにいってくれるかな」
「わかりました。みい姉さんに振られて傷心中の戯言遣いのお兄ちゃんの誘いです。わたしまで誘いを断ってしまったら自殺されかねませんのでお誘いをお受けいたします」
「……うん、ありがとう」
 十三歳の美少女にお情けでデートしてもらう十九歳。
 今はぼくもあんまり余裕無いんだけど、今日は特別に奮発して奢ろう。
「では私は一旦アパートへと戻るが、お前たちはどうする」
「崩子ちゃんさえ良ければ、このまま行こうと思います。荷物もそんなに大したことありませんし」
 入院していたとはいえ荷物はそんなに多くはない。元々私物が少ないうえに入院には慣れているので必要最低限のものしか持ってこなかったし、今回は調べ物をしていたので暇つぶしの物もあまり持ち込んでいなかった。七々見ななななみのやつに借りた『バーコードバトラー』というのもほとんどやらずに返してしまったし。
 一度だけ、対戦が出来るって言うから、仕事してなさそうならぶみさんとやろうとしたけど変な顔されてしまった。まあ、話によると空前絶後の大ブームで中々手に入らないって言ってたから珍しかったんだろう。
「それじゃあ私は帰るとするよ。お前たちはのんびりしてくるといい」
「はい、また後で」
「うん。いの字、くれぐれも十三歳相手に血迷うなよ」
「…………」
 振られた相手にそんな風に思われるのはショックだった。誰に思われたってショックだ。
 落ち込むぼくにみいこさんは「冗談だ、信用してるよ」と言って去っていった。取り残されるぼくと崩子ちゃん。
「それじゃあ行こうか」
「はい。ですが行く前に一つ、もし本当にお兄ちゃんが血迷った場合はそれ相応の防衛行為を取らせて頂きます」
「……しないよ」
 ぼくってそんなに信用ないのだろうか。そんな奴だと思われているのだろうか。いくら信用するのも信用されるのも嫌いだとは言え、これはいくらなんでもあんまりじゃないだろうか。
「そうですか、残念です」
 真っ赤な唇を歪ませて崩子ちゃんは笑う。
 残念って……ぼくを正当防衛に見せかけて抹殺するつもりなのか。そこまで崩子ちゃんの恨みは深いのだろうか。
 これは是が非でも今日中に崩子ちゃんの機嫌を直さなければなるまい。世界の終わりを望む狐面の男と対決する前に嫉妬する崩子ちゃんにぼくの人生を終わらせられかねない。
 ……ぼくはまだ死にたくはない。



   

 奮発して奢るとは言ったものも、崩子ちゃんは生粋のベジタリアンで小柄な体格のとおり小食だ。それでも行く所に行けばかなりの額はするのだろうが、崩子ちゃんは慎ましやかで質素だからそういう所には行かなかった。結果、それほどぼくの懐も痛まずにすんだ。
 それでも崩子ちゃんの機嫌は大分良くなったようで、食事をしている様子は楽しそうだった。
 やれやれ、一安心だ。崩子ちゃんに恨まれ続けるのはごめんだ。
 食事を終えたぼくらはそのまま帰るのもあれなので、そのまま新京極をぶらりと歩いている。二人で並んで、目的も無くぶらぶらと歩く。
 平和だと思う。少なくとも表面上は。
 だけどぼくはさっきから恐れている。今この瞬間にも狐面の男が次の行動を移してくるんじゃないかと。そんな考えは普通なら杞憂だろう。普通はこんな人通りが多いところで目立つような行動はしてこないだろう。
 だけどあの男は普通じゃない。あの男は最悪なのだ。
 他人を巻き込むことなど気にも留めない。どっちだって良いのだ。巻き込もうが巻き込むまいが、他人だろうが自分だろうが、そんなものは同じだと。
「えいっ」
 突然足に走った痛みにぼくは思考を中断して身を硬くする。狐面の男の襲撃かと思った。
 違った。横を歩いていた崩子ちゃんが僕の脛にローキックを入れていた。綺麗に決まったそれは、鋭い痛みと共に鈍い痛みも継続して与えている。
「何をするのかな、崩子ちゃん」
「戯言遣いのお兄ちゃんはとても失礼ですね」
 痛みに耐えるぼくに、痛みに耐えている姿は見ていられないと言った崩子ちゃんは不機嫌そうに言う。
 ってか、いきなり人の足を蹴るのは失礼じゃないのだろうか。
「人と一緒に歩いているときに、上の空で考え事をするのは相手に対して失礼です」
「あー、うん、ごめん」
「それもまた謝って済む問題じゃありません」
 また許してもらえなかった。
「それに誠意もありません」
 ダメ出しまでされた。
 本当に容赦がないなあ。
 容赦のなさ……みいこさんが言うところのぼくを生かしてくれるもの。
「戯言遣いのお兄ちゃんが考え事に耽るのは今に始まったことではありませんが、それでも傍にいる人は良い気分ではありません」
「そうだね、悪かったよ」
「お兄ちゃんは悩みすぎですよ。他の人にも言われたことはありませんか」
「あるよ」
 姫ちゃんが死ぬ前に。
 ぼくを悩みマニアだと。
「ぼくだって悩みたくはないよ。だけど悩み事が向こうから来るんだから仕方ないだろ」
「ですが、お兄ちゃんの場合はわざと悪い方向へと考えているようにしか見えません」
 ぼくがネガティブ思考なのは認めるけど、別にわざとってわけじゃないんだけどな。
 まあ、今のぼくは崩子ちゃんに何を言われても言い返すことできないんだけど。
「なんでもかんでも自分の中に溜め込むのは悪い癖だと言ったはずです。ここまでくるとわざと周りに嫌がらせでやっているんじゃないかと疑いたくもなります」
「嫌がらせって……」
「わたしはお兄ちゃんが傷つく姿なんて……潰れた死体なんて見たくはありません。そう言ったはずです」
「そんなのは――」
 ぼくも同じだ。
 誰かが傷つく姿なんて見たくない。自分の傷は痛みがあるから耐えられるけど、他人の痛みは痛みが無いから耐えられない。見て、いられない。
 どうせ傷だらけの体に傷だらけの精神だ。誰かが傷つくくらいなら、誰かの傷を見るくらいなら、自分が傷ついて死んだほうがマシだ。
「わたしは傷つきません」
 崩子ちゃんは容赦してくれない。
 ぼくの弱さを容赦なく責め立てる。
「何があろうと、好きな人を悲しませないためならわたしは、あらゆる傷を拒絶します。そうとも言ったはずです」
 誰かの傷を見ていたくないから、誰かを傷つけないために、自分も傷つかない。
「ですから心配しないでください。わたしは大丈夫です」
 崩子ちゃんはぼくの手を握って、ぼくの目を見て言う。
「わたしはお兄ちゃんを悲しませません」
 既に傷だらけの身体に触れて――。
 常に傷だらけの精神を見据え――。
「ですから一人で抱え込まないでください。一人で思い悩まないでください。何かあればわたしを頼ってください。わたしに相談してください。もっとわたしを信頼してください」
 ――信頼。
 裏切られないと思うこと。
 裏切られても構わないと思うこと。
「わたしはお兄ちゃんの友達なのですから」
 そう言う崩子ちゃんは、相変わらずのクールは表情だが――ほんの少しだけ、目をそむけて、白い頬を赤くしているような気がした。
 『友達』という言葉を使ったのを照れているのかもしれない。
 こういうところは、やっぱり十三歳の女の子なんだな、と安心してしまう。
「……ぼくは、やっぱり友達を傷つけたくはないよ」
「わたしは傷つきません」
「それでも、だよ」
 それでもぼくは誰にも傷ついてほしくはない。
 そんなぼくは誰をも傷つけてきた。
 好きな人も嫌いな人も、まるで等価に同じように傷つけて生きてきた。ぼくが負った傷など比べ物にならないくらい多くの傷を、周りに与えてきた。
 ぼくは生きているけど、ぼくは殺してきたんだ。
 理由も理念も理屈も無く。
 ――まるで殺人鬼のように。
「だから、ぼくは傷つかないといけないんだ。ぼくが傷つかなければいけないんだよ」
「やはりお兄ちゃんは狡猾です。そんな残酷な考え方、わたしは認めません」
「認めてもらう必要は無いよ」
 これはぼくの問題なんだから。
 誰かに認めてもらうつもりは無い。
 誰かを巻き込むつもりも、また無い。
「わたしは……」
 崩子ちゃんは俯いている。
 崩子ちゃんが泣いたところなんて見たこと無いけど、泣いているところなんて想像がつかないけど――。
 それでも崩子ちゃんが泣いているような気がした。
 そんなものは経験するまでもなく、想像するまでもなく――見たくないに決まっている。
「ぼくって、みいこさんに言わせるといじめられっ子の駄目駄目君らしいんだ」
「……わたしもそう思います」
「それでも、それなりに頑張っているらしいんだ。――ぼくには自覚ないけどさ」
 いじけて、拗ねて、卑屈なだけの子供だったぼく。
 今だって、それは変わらない。
「だけど、もし本当にそうだとしたら、それはみいこさんみたいに見守ってくれる人や、崩子ちゃんみたいに容赦なく叱ってくれる友達がいるからだと、思う」
 あるいは、あの赤色のように、ぼくのちっぽけさを笑い飛ばしてくれる人。
「だから、またぼくが一人でうじうじしていたら、そのときはまた、容赦なしにぼくを叱ってくれるかな」
 ぼくは昔からそうだ。誰にも関わってほしくないと言いながら、一人では何もできない。前にも後ろにも進めずに、ただ口先だけの情けないやつなんだ。
 人に好きになってほしいくせに、人に関わるのを恐れて人を嫌悪する、臆病者。
 本当のことは何一つ言えない戯言遣い。
「やはりお兄ちゃんは卑怯です。姑息です。狡猾です」
 早速容赦なしに言う崩子ちゃんは、既に俯いておらず、そのクールな表情をぼくに向けている。
「ですが、言われるまでもありません。わたしは戯言遣いのお兄ちゃんが一人で抱え込むことを許しません」
 崩子ちゃんはクールな表情で、真っ赤な唇を歪ませて言う。
 十三歳に説教される十九歳。
 まあ、それも良いかなって思う。
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまて」
 本当、十三歳なのにしっかりしている。
 うーん、だけどやっぱり少し心配だよなあ。傷つかないと言っても溜め込んじゃいそうだし。
 しっかりしていても十三歳だ。
「崩子ちゃんも何かあったら、ちゃんと萌太もえたくんやみいこさん、なんだったら頼りないだろうけど、ぼくとかにでもいいから相談するんだよ」
「ご心配なく、わたしは大丈夫です」
「なら、良いんだけどさ」
「わたしは絶対に傷つきません。傷つくつもりはありません。――ですが、もし、わたしが悲しくなったときには」
 崩子ちゃんは少し言いよどむ。
 それも一瞬で、すぐにクールな表情に似つかわしくない台詞を続ける。
「そのときは、戯言遣いのお兄ちゃんに泣きつかせてもらいます」
「こんな頼りない胸でよければ、いつでも貸すよ」
 ぼくは薄っぺらい、中身の入っていない胸を叩く。
 ちょっと痛かった。
 格好つけて強く叩きすぎてしまった。ものすごく格好悪い。
 そんなぼくを見て、崩子ちゃんは本当に楽しそうに笑っていた。





寝言
ムズッ!
楽しそうな崩子ちゃんムズッ!!
今回はネコソギ上巻に書かれていた、いっくんと崩子ちゃんのデートに挑戦してみました。
結局私の想像力と創造力では楽しい崩子ちゃんは無理でした。不機嫌な崩子ちゃんしかイメージできない。
このあと忠犬崩子ちゃんはいっくんの友達から奴隷へ、奴隷から抱き枕へ、そして最後には着せ替え人形になってしまう訳ですね。
なんでいっくん警察に捕まらないんだろ?
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