人を見かけで判断するのをやめたとき、人は誰も信じられなくなる。


   

 なんか、前回も似たような引きだった気がする。
 って、そうじゃなくて、ぼくは改めて目の前の人物を見る。
 市井遊馬。《病蜘蛛ジグザグ]》。曲絃師のなり損ない。ぼくの弟子を自称する少女、紫木一姫の本来の師匠。――市井遊馬。
 写真では見たことがあるが、直接の対面はこれが初めてだ。写真が取られた時期を考えれば当然の話だが、多少ぼくが見た写真に写っていた姿よりも老けた感じがするが、もちろん老いている訳ではない。よく眼を凝らして観察すれば顔から皺を見つけ出すことも可能だろうが、いくらぼくでも女性の皺を念入りに発見しようなんていう悪趣味は持ち合わせていない。
 しかし、いくらなんでも彼女の登場は予想外だ。春日井さんのような読めない予想外とは違うが、それでもこの女性がここに居るのは場違いな気がする。だって、彼女は――。
「話には聞いていたけど、本当に初対面の相手を観察するように見るね」
「すみません、癖みたいなモンなんですよ。 気に障ったのならば謝ります」
「ううん、気にしてないわ。 言ったように話には聞いてたし……それにこのくらいで目くじら立ててちゃ、とてもじゃないけど潤と付き合ってられないわ」
 それは、とても説得力のある言葉だった。哀川さんは相手の都合なんて一切構わずに振り回すのだから、無礼とかそういうので目くじらを立てていてはとても付き合いきれない。嫌になるのではなく、疲弊して付いていけなくなるのだ。
 本当、何であの人のことを嫌いになれないんだろう。もちろん、嫌いになりたいわけではないが、気になるといえば気になるところだ。
 特に、ぼくのように関わる殆どの人に嫌われるような奴には。
「納得したって顔ね」
「哀川さんには内密にお願いします」
 私が今言ったことも内密にね、と彼女は苦笑を浮かべる。
 さて、ぼくはこの人に嫌われずにすむのかな。
 姫ちゃんがぼくに重ねて見た人物と。
「あの、ところで遊馬さんはここで何を?」
「言わなかったっかな? 私もここの教師なのよ。 一度はクビになったけど、萩原さんの要望ということでまたこの学校に呼ばれたの」
「子荻ちゃんに?」
 わざわざこの人を――《病蜘蛛ジグザグ》と呼ばれた人を呼び寄せるなんて、一体子荻ちゃんは何を考えているんだ? まさか本当に過去の狂戦士養成所クビツリハイスクールを復活させるつもりなのか。自分自身の目的を持てるようになったと言ったのはやっぱり策の内で、本当は過去に与えられた役割の続きを未だに続けているのか。
 いや、だとしたらこの人がノコノコ召集されるだろうか? この人はかつて前理事長の意向に逆らって、その結果クビになったはずだ。 危うく命すらも落としかねる所だったはずなんだ。 そんな人があの頃の澄百合学園を復活させることを是とするとは思えない。
 ダメだ。情報量だけが増えたって混乱するばかりだ。ちっとも真相にたどり着けない。っていうか、次々に登場人物が出すぎだろう。対人能力に欠陥があるぼくにはそろそろ処理しきれなくなってきてるんだけど。これ以上増えられるとさすがにぼくには収拾が付けられない。手を貸してもらおうにも今のところ登場人物全員ぼくの敵っぽいし。特に春日井さん。
「そういう君はこんなところで何をしているのかな?」
「さっき言いませんでしたか、ちょっと自分の進路について悩みがあったんですよ」
「そういうことは直接萩原さんにでもそうだんしたらどう? 仲が良いんでしょ?」
 それはどうだろう? ぼくと子荻ちゃんの間に友好的な関係が築き上げられるような要因は皆無だと思うけど。現に今回だって一応は共同戦線の形も取っているとは言え、それも表面上だけの話。いや、策の内だ。ぼくと子荻ちゃんが今後も仲良くなるような可能性は、ぼくにはちょっと想像できない。ほら、ぼくって何をしたのか分からないけど子荻ちゃんに恨まれてるっぽいし。
 ぼくとしてもそんなに子荻ちゃんことは嫌いでは無いのだけど、やっぱり今後もお近づきになるのはどうも気が引ける。苦手意識という奴だ。
「子荻ちゃんにカッコ悪いところ晒すのは嫌なもので」
「分からなくは無いよ。あの娘の前では取り繕ったところで何の意味も無いとしても、それでも自分から弱みを晒すのは魚が自分ではらわたを抜いてまな板の上に飛び込んでくるようなものだからね」
 困ったように、そしてどこか虚ろに笑う遊馬さん。
 ああ、やっぱりこの人は知っているんだ。子荻ちゃんがどういう類の人間であるか。彼女がこの学校の教師として働いていたというのなら当然だが、それでもこの様子では学校の中に居て噂で聞いたというレベルの付き合いと言う事はあるまい。その程度の付き合いであんな表情は浮かべられない。
 そして、もう一つ分かった事は割とこの場合ぼくにとって重要だった。あんな表情を浮かべる以上、昔と変わらず今もこの人は《首吊り高校》の在り方を快く思ってはいない。この人ならば、唯一ぼくの目的への協力者となってもらえるだろうか。
「残念だけど、君が今期待しているだろう事には応えられそうに無いよ」
 ぴしゃりと言い放たれる。
 それ以上の追求も甘えも許さないように。
「残念ですね。やっぱり女性に年齢を聞こうと思ったのは失礼でしたか」
「別にとぼける必要も無いと思うけど……、戯言だっけ? それって言わずにはいられないの?」
「アイデンティティに関することですから、そう簡単にはやめられませんよ。殺人鬼に人を殺すなって言うのと同じくらいに無茶な要求です」
 まあ、世の中そんな無茶な事を言って、更にきっちり守らせているようなとんでもな人も実在するのだから困る。
 …………いや、ぼくも似たようなこと言ったけどさ。
 でも、そうか。やっぱり無理か。多少は期待していただけにちょっとがっかり。だけど仕方ないか。お互いの立ち居地が違う以上、舞台での役割を乱しては状況が悪化する事は過去の経験で嫌になるほど分かっている。
 身に染みて、身に余るほど。
 そもそも、あの子荻ちゃんがぼくと遊馬さんの接触に対して何の対策も考えていないとは思えないし、もしもこの時点で考えていないとしても、それは結局のところ子荻ちゃんにとって些細なことでしかないのだろう。誰と誰が手を結ぼうと子荻ちゃんにとってはそんなことは大きな問題ではない。
 いくら、盤上の駒が結託しようとも、それを指す棋士の思惑を外れることなど無いのだから。
「それじゃあ、一つだけ聞かせて欲しいんですけど」
「何? 先に言っておくけど年齢はもちろんスリーサイズも潤の過去の失敗談も教えられないよ」
「いえ、そうではなくて」
 まあ、知りたい気もするけど。特に最後の。
 …………いや、どうだろう? あの人の過去話は何を聞いても後悔しそうな気がする。
 うん。やっぱり人の過去を穿り返すのは良くないことだ。他人の過去を本人のいない場所で無許可に詮索するなんて人間として終わっている行為だ。人間失格だ。ぼくのような欠陥品にだってそれくらいの節度はある。
 ぼくは湧き上がる興味を封殺して初めからこの人に訊ねたかったことを聞くことにした。
「あなたは姫ちゃんに会いに行かないんですか?」
「…………」
 ぼくのその質問に、目の前の人物の雰囲気僅かに堅くなる。
 その僅かな変化でぼくの中に最大級の危険を告げる警報がけたたましく鳴り響く。
 こうなることをそれこそ「あらかじめ予測していました」なのに、本当にぼくは地雷を踏むのが好きらしい。知らずに踏むんじゃなくて知っていて踏むんだから性質が悪い。
「答えなきゃいけないことかしら?」
「答えたくない質問ですか?」
「ええ、答えたくないわね。そして、そんな不躾な質問はされたくも無いわ」
 不躾、ね。
 確かに過去の経緯を考えればおいそれと他人のぼくが口を挟んで良いような問題ではないだろう。少なくともぼくなら僅かばかりに事情を知っている程度の相手においそれと口にして欲しくは無い。
「それも、一応ぼくは現状では彼女の師匠って事になってるんで気懸かりだったんですよ」
「そう、話に聞いていた通り優しいのね」
「さっきから気になってたんですけど、そのデマばかりの情報は一体誰が流してるんですか?」
「質問は一つだけじゃなかったかしら?」
「そうでしたね」
 いや、まあぼくらの共通の知り合いなんて限られてるけど。そして、そんな風に人の事を話すような人物となるとさらに限定されてくる。春日井さんでも子荻ちゃんでもありえない。子荻ちゃんがぼくをそんな風に評するとは到底思えないし、春日井さんが流すにしては意図的なものを感じる。あの春日井さんにそんなものがあるわけが無い。
 まったく、本当にあの人は――。
「それにあながち間違いだらけってわけでも無さそうだしね」
「ほとんどが真実だとしても、核心の部分が間違ってたらだったらそれは嘘と同じですよ」
「それはあなた自身のことじゃないのかしら」
 中々辛辣な言葉で返してくれる。先ほどのぼくからの質問への返礼のつもりだろうか。
 ふん、しかしそうなるとなるほど。姫ちゃんが時々物凄く失礼なことを平然と言う口の悪さを発揮することがあるが、どうやらアレは哀川さんの悪影響と言うわけではなかったのか。ましてや、みいこさん達が言うようなぼくのせいだというのも冤罪だと証明されたわけだ。
「戯言だけどね」
 そんなぼくのお決まりのセリフも存在自体が戯言めいたこの学校の中でどうにも弱い。ああ、だからこそぼくにとってこの学校は鬼門なのか。端から嘘っぱちで破綻しているよな場所では戯言は何の意味も持たない。真逆の真実でぶつけるのとは別の意味での戯言殺し。
 本当にさっさと仕事を終わらせてこんな場所からは離れたいものだ。情けないと言う無かれ。ぼくでなくてもこんなところにいたらホームシックに掛かる。
 だからと言って仕事の手を抜くつもりは無い。信用問題云々以前にこの仕事はぼくも臨んで引き受けたことだ。何よりも哀川さんの前でそんな無様な真似は出来るわけも無い。
 何事も無いのが一番だけど。
「それじゃあ、ぼくはこれで失礼しますよ。色々と探るのにも人の目が合ったらやり難いですから」
「堂々と言うのもどうかと思うけど?」
 ようやく、険悪な雰囲気を解いて苦笑を浮かべてくれた。
 やれやれ。仲間がいないだけじゃなく、危なく敵まで増やすところだった。それはさすがに勘弁願いたい。周りが敵だらけなんて4年前の二の舞も良いところだ。
 ぼくが部屋から出やすいように遊馬さんが道を譲ってくれたので、ぼくはその横を通り過ぎる。そのとき、一応警戒だけはしていたお陰で、丁度横を通り過ぎるときに突然声を掛けられたときに驚きを表に出さずに済んだ。
「私の方からも一つ君に聞いて良いかな?」
「ダメだと言ったら、聞きませんか?」
「ええ、聞かないわ。それならそれですっぱり諦めることができる」
 その言葉には嘘はあるまい。この人は本当にぼくが拒めばその質問自体をしてこないだろう。
 潔いとか言う話ではない。答えを求めながらも質問したこと自体を僅かに悔いている。
 参ったな。ぼくはどうもそういう対応されると弱い。
「どうぞ、遠慮せずに聞いてください」
 音無さんなら『天邪鬼』と評するだろうし、哀川さんなら『ツンデレ』と評するか。
 あれ? でも『ツンデレ』って使い方間違ってるか? 大体、それは完全にぼくのキャラじゃないぞ。ぼくの周りでツンデレキャラなんていたかな。辛うじて子荻ちゃんくらいじゃないか? あれで何だかんだ言いながら後輩の面倒見が良いって話だし。
 何はともあれ、ぼくが拒まなかったことに、遊馬さんは一瞬と言うには僅かばかりに長い時間を躊躇してから、その肝心の質問を口にする。
「あの子は……姫ちゃんは元気?」
「…………」
 ああ、何だ。ここにも一人いたのか。いや、でも事情が事情だからこの人のも違うよな。
 とにもかくにも、姉が妹に対するような、親が子に対するような――師匠が弟子に対するような慈愛と心配に満ちた声でされた質問に、珍しくはぐらかす気も無く真っ正直に思ったままに答えようと思った。
「自分で直接確かめてみたらどうですか?」
「ふぅ、本当に話の通り容赦は無いわね」
 その言葉には答えずぼくはただ肩をすくめて、横を通り過ぎる。
 まったく、一体誰がそんな根も葉もない噂をばら撒いてるんだろうね。



   

 ぼくは進路相談室を後にして校内をブラブラと歩いていた。もちろん、こんなことで何か怪しい点を発見できるわけも無いんだけど、他にすることが無いと言うのが現状だ。一番何かありそうなのは職員室だが、あそこは人の目が――何より子荻ちゃんの目がある。下手なことは出来ない。まあ、子荻ちゃんの場合は例え目が届かない場所に居たって関係無くこちらの動きを把握してそうだけど。
 臨時講師という事で授業以外の雑務も簡単なものしかなく、早々に終わらせてしまっているので後は自由に動ける。幸い今は放課後なので校内を歩き回っても誰にも見咎められること無い。せいぜい、すれ違った生徒にたまに挨拶されるくらいだ。ぼくは生憎顔を憶え切れていないけど、きっとぼくが授業を受け持った生徒だろう。その生徒たちにしたって特におかしな点は見当たらない。現在は放課後と言うことで部活に励んでいる生徒が大半だが、その部活にもおかしな点は無い。少なくとも、ぼくがたびたび姫ちゃんが口にする過去の《澄百合学園》の話と照らし合わせる限りは。
「これは本当に普通の学校なのかなあ」
 果たして何度もとなるか分からない呟きをもらす。
 あの《四神一鏡》の一つ《檻神》がただの学校を作るわけが無いと言う考えこそ、ぼくらの思い込みなのだろうか。早計に判断するのは良くなのは分かっているが、表面上は本当にただの学校だ。まさかぼくが来ている間だけそう見せていると言うことも考えられなくは無いが、その程度の策とも言えないような事をあの子荻ちゃんがやるとも思えない。
「結局のところ何も分かってないってことなんだよな」
 一筋縄ではいかないことは最初から分かっていたが、実際に行き詰ると気が滅入る。せめてもの救いが生徒の中にそれほど捻くれた性格の子がいないことくらいか。それも悩みの原因の一つだけど。
 怪しいと言えば、この学校の生徒たちが使っている寮も怪しいと言えば怪しいがさすがにそこに立ち入るわけにも行くまい。別に距離が遠いとかそういう理由ではない。そもそもこの学校の敷地内にあるのだから近い。問題はここは女子校なのだから当然のように生徒は女子だけで、そうなると寮も当たり前のように女子寮になるわけだ。そんなところに、今日付いたばかりの臨時講師がどんな顔で入って行けというのだ。
 全寮制のお嬢様学校。この学校の特殊な事情を差し引いたところでぼくには不似合いだよなあ。まだ、事情が付け足されている分、ぼくの存在が許容されているのか。4年前に訪れたときもぼく一人だけが明らかに浮いていたし。
 せいぜいどうにか入れるとしたら教師用の寮くらいか。あそこならぼくでも入れそうだ。
「あれ? そう言えば、今日中に片付かなかった場合は一体ぼくはどこに泊まれば良いんだ?」
 哀川さんは必要な手続きは全て済ましてあるとは言っていたけど、それは入寮も含まれているんだろうな。あの哀川さんにそんな手抜かりがあるとは思わないけど……。
 しかしなあ、前回が前回だったから早く終わらせられるかとも思ったけど、これは時間が掛かりそうだ。少なくとも前回のように一日で終わらせて日帰りと言うわけには行くまい。ぼくの臨時講師としての期間が一体どれだけあるのかぼく自身も把握していないけど――今まで考えなかったけど、結構重要だよな――少なくともその間に何らかの手がかりくらいは掴みたい。
 何も無いなら無いで良い。こんなこと無いに越したことは無いのだ。何も無いと言う証拠が出れば一番望ましい結果なんだけど……。
「果たしてぼくの人生の中で何も無いなんて事がありえるのかな」
 我ながら困った人生観だ。たまにはそんな先入観を払拭してくれるエピソードがあっても良さそうなものなのに。
 これもぼくの無為式たる所以なのだろうか。
 ぼく自身が望んでいなくても、ぼくの意思に関係なく無意識の内にトラブルを呼び込む。
「たまには平穏無事に行きたいもんだ」
 まあ、そんなことは儚い希望だって事は残念ながら自覚しているけど。大体、女子校の廊下をブツブツと独り言を言いながら歩いている男って言う時点で不幸系のフラグが立っている。それこそ何かの物語なら真っ先に冒頭でこんな事件が起きる話ですよと言う説明のための第一犠牲者になること間違い無しだ。
 困ったことにその災厄がきっちりぼくの目の前に姿を現していた。
 パッと見に襤褸切れを纏っているのかと錯覚しそうなほどに切り刻まれた、良く見れば警備員のモノと分かる服。身長が低いため丈が合っていないようだが、そこも切り裂かれて調節されている。もちろん、図って切っているわけも無く、左袖に到っては丈が逆に足りていない。一応規則にしたがってなのか、これま既に役割を果たしていない状態で、ただ乗っかっていると言うだけの状態の帽子の下からは年頃の女性のものとは思えない、無造作に切り揃えたと言うより、無残に切り刻まれた髪の毛が覗いている。何かの事件に巻き込まれたのかと思ってしまう身なりに合わせ、その歩みも右へ左へゆらりぃゆらりぃと揺れて不安定な足取りだ。普通の人間ならまず近寄ろうとは思うまい。親切な人間なら駆け寄って支えようとするかもしれない。だが、そんなことをすれば親切な人はより悲惨な目に遭ってしまう。
 元《首吊り学園》の《生徒》にして既に《実働部隊》。
 現《澄百合学園》の《警備員》。
 《闇突》西条玉藻さいじょうたまも。  …………。
 っていうか、何をやってるんだ、あの娘は。
 ああ、そうか。放課後の見回りか。ご苦労様です。
 とりあえず、彼女が自分の姿を鏡で見ないことを祈ろう。そこには不審人物トップクラスの姿が写っているから。
「ゆらぁりぃ……ぴたり」
 そう言って、今日のお昼のときのようにぼくの目の前で停止する。
 その距離は一息でその腰にマウントされている警備員らしからぬ装備で、ぼくの生命活動を停止することが可能な距離だ。昼のときもそうだったけど、この娘を前にすると一気に生命の危機を感じる。それはきっと錯覚じゃあない。
「えーと」玉藻ちゃんは少し考えるように首を傾げる。「誰でした……け?」
「酷いな。自分の恋人のことも忘れちゃったのかい?」
「えー、あたしはそんな悪趣味じゃないですよー。そんな失礼なことを言う人は殺しちゃいますよ」
「玉藻ちゃんは本当に変わらないね」
 今更変われないというのもあるのかもしれない。こう言ってしまうのはあんまりと言えばあんまりだが、真っ当に戻った玉藻ちゃんと言うのは想像できない。深度は別として重度で言えば玉藻ちゃんが姫ちゃんよりも子荻ちゃんよりも重い。ぼくは彼女がこの学校に来るまでどこで何をしていたかは知らない。だけど、今の人格形成が《首吊り学園》の影響だけとはどうしても思えない。この学校しか知らなかった子荻ちゃんですら表面上のコミュニケーション能力は備わっていた。だが、玉藻ちゃんにはお世辞にもそんな能力は欠片も無い。まるでその必要性が無いかのように。
 人の過去を無闇に詮索するものじゃない。誰だってそんなのは迷惑だと思う。ぼくだってそう思う。だけど、それでも久しぶりにこうして対面してみると、あの頃より色々と知ってしまった今に向き合ってしまうと、どうしても考えてしまう。この娘は一体どんな人生を歩んできたのかと。
 …………。
 ちなみにこの際、どっちが失礼なこと言ってるんだって言う突っ込みは無しの方向で。
 自然と悪趣味発言も無視。無かったことにする。
 良いんだ。ぼくは年下の趣味は無いから。断じて強がりなんかじゃない。
「戯言ではあるけどさ」
「何、言ってるんですか?」
 ゆらり、と首を傾げる玉藻ちゃん。もちろんその際に腰のナイフに手をかけるのも忘れない。
「ねえ、玉藻ちゃん。玉藻ちゃんは何でここで警備員をしてるの?」
「なんで、そんな事を」ゆらり。「あなたに言わなきゃいけないんですか?」
「気になってね。もう《首吊り学園》が無くなった今は君がここに留まる理由も無いんじゃないかな」
 そう、もう玉藻ちゃんをこの場所に縛り付けるようなものは無いはずだ。むしろここが健全な学校を目指していると言うのならば、玉藻ちゃんのような存在はむしろ危険因子だ。
 ここが真っ当な学校ならば。
「余計なお世話……ですよ」迷惑そうな顔をして玉藻ちゃんは言う。「言う必要も言われる必然もありません」
「そうだけどさ。言わない必定もないだろう?」 「面倒です……」ゆらり「でも、良いです。言っちゃいます」
「ありがとう」
 相変わらず考えるのが嫌いな玉藻ちゃん。
 この場合、ぼくは助かったけど、しかし警備員として果たしてどんなもんだろう?
「あたしがここにいるのは」ゆらぁりい。「萩原先輩に呼ばれたからですよ」
「子荻ちゃんに?」
 またしても?
 《病蜘蛛ジグザグ》市井遊馬に続いて、《闇突》西条玉藻までも。
「どうせあなたは他に行く場所も無いでしょうって」
「そう」
 ぼくはただ相槌を打つだけに留める。いや、それくらいしか出来そうに無い。
 生憎と、ぼくには思い出を嬉しそうにはにかみながら語る女の子に対して、他にリアクションの仕方を知らない。
 萩原子荻。
 《策師》。
 『澄百合学園』筆頭。
「面倒見の良い先輩か」
 やっぱりぼくにはイメージが湧かない。ぼくが子荻ちゃんのそういう情の部分を見たことが無いと言うのがやはり大きいのだろうけど、彼女の行動の一つ一つに何らかの意図があるように思えてならない。
 それこそ正しく先入観だ。
「ああ、そうでした」特に慌てた様子も無く、何かを思い出して玉藻ちゃんは揺れる。「不審な人を見たら……先輩に伝えるようにと言わ」ゆらぁりぃ。「れていたんでした」
「そう、お仕事大変だね」
 もう、その不審人物が誰かはあえて聞くまい。
「萩原先輩を呼んできますので……ゆらり、そこで待っていてくださいね。」そう言いながら、玉藻ちゃんは腰の物を引き抜く。「動いてたら殺しちゃいますから」
「分かったよ。安心して行ってきな」
 ぼくが頷くと、玉藻ちゃんはその不安定な足取りからは想像できない速さで廊下を移動して行った。一応、歩きで。廊下は走っちゃいけませんという評語を守っているらしい。
 ふぅ、やれやれ。さすがに玉藻ちゃんと会話するのは神経が疲れる。いつ何時あのナイフがぼくに向かってくるとも限らないので敵愾心を持つことは無いにせよ、警戒心は忘れてはならない。
 お陰で一応の収穫は有ったとしておこう。
「やっぱり鍵は子荻ちゃんか」
 一体何を考えているのか。どちらとも取れる人材適用。まさか本当に行く場所が無い者を保護するために呼んだという事はあるまい。
 この学校と同じだ。何かしらの思惑はある。思惑はあるがそれがなんだか掴みきれない。
 やっぱりぼく一人では手に負えそうにも無い。
 元々ぼくは一人では何かを出来るような人間でもない。
 だけど、やるべき事から逃げ出すのだけはもうやめにしたい。
「難儀難問な戯言だよ」
 まずは指しあったってやる事として、ぼくは玉藻ちゃんが子荻ちゃんを連れて戻ってくる前にその場を後にする。





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