笑え笑え、他人の不幸も自分の不幸も、楽しみ笑え。


   

 本日、玖渚くなぎさからお呼びがかかった。
 要点だけまとめてみると、暇だからいーちゃんに会いたいんだよっとのことだ。
 幸いにして今日は仕事も無く、他に用事と言えるような用事も無い。そもそも玖渚にそう言われて断れる訳も無いので、ぼくは了解の旨を伝えると、手早く出かける準備を済ませる。
 戸締りをきちんと確認して、エレベーターに乗って一階に降りる。アパートを出たところで、上半身裸でダンベル体操をしている荒唐丸こうとうまるさんを見なかったことにしつつ、指定駐車場へと足を運ぶ。
 うん、今日もいい天気だ。
 駐車場では同じアパートの住人、元隣人のみいこさんが愛車のフィアットを整備していた。普段着の甚平を腰に巻きつけている姿はいつ見ても眩しい。
「どうも、みいこさん」
「ん? ああ、いの字か。 おはよう……と言うには少し遅いかな」
 現在時刻は十一時少し前。あまり早いとは言えない時間だ。
 社会人の皆さんはお仕事を頑張っている時間だろう。
 ぼくは自営業だから、あまり関係はないけど。
「フィアットの整備ですか」
「うん。 最近調子が悪くてね」
「ですか」
「最近誰かさんが乱暴に扱うもんだから」
「申し訳ありません」
 いまだに車を持たないぼくは、仕事などで遠出する必要があるときにはみいこさんにフィアットを借りている。それでもあくまで基本用途は移動用なのでそんなに乱暴な扱いはしていないつもりだ。……まったくしていないとは言えないけど。
 やっぱり、そろそろ車買ったほうが良いのかな。資金はあるけどなるべく出費は控えたいところなんだよな。でも、仕事で必要になってくるのも事実なわけで、うーん、悩む。
「後でお前にも手伝ってもらおうかと思ったが……どうやらこれからお出かけのようだな」
「はい、お手伝いしたいのは山々なんですけど」
「いや、構わないよ。 仕事かな?」
「いえ、私用です」
「ああ、うにーのところか」
 ちなみに『うにー』とはみいこさんの玖渚の呼び方だ。
 なんとなく気まずげに頷いてしまうぼく。別にやましい事を感じる必要は無いのだが、それでもやっぱり、かつて告白して振られた者としては、自然体で振舞えない。
 そんなぼくを見てみいこさんは苦笑を浮かべる。ぼくの浅はかな気持ちなど見通されているような気分だ。実際、見通しているのかもしれない。
「これは制限時間まで、もうあまり時間が無いのかな」
 どうでしょうね、とぼくは曖昧に答えておく。
 浅野あさのみいこ。剣術家。二十七歳。いまだフリーター。
 そろそろ身を固めましょうよ、と言うぼくに、「あの頃、お前がこんな立派奴になるとわかっていれば」とみいこさんが言うので、ぼくもぼくで「今からでも、遅くはないと思いますけど」と答えると、みいこさんは「考えておこう」と言ってくれたわけだけど、いまだにその答えは貰っていない。
 ぼくとみいこさん――二人があの時言った言葉は本気なのか、それとも戯言なのか。
「少なくとも、今はまだ猶予がありますよ」
「そうか。 まあ、焦らずのんびり考えるとしよう」
 ぼくとしても、早急に決められたら困るので嬉しいお返事だった。
 曖昧あいまい主義の戯言遣い――なんか違うけど。
「そう言えば、こないだの仕事では助かりました」
「気にするな、お互い様だよ。 私もあの時の収入で助かったしな」
 あの時はちょうどバイトがクビになったって言ってたもんな。骨董趣味は相変わらずだから、生活費もギリギリまで削っているみたいだし、バイトも長続きしないんだよな。
 原因の大半は人間関係のトラブル。このアパートの住人のようなアクの強い人間とは良好な関係を気づけているのに、何故か雇い主や同僚、客とトラブルを頻繁に起こすんだよな。本人も反省はしているようだけど、いまだに改善の見込みはない。
「新しいバイトは見つかりましたか」
「いや、それが中々ね」
「ここら辺のバイトはほとんどやっちゃいましたもんね」
「そんなわけだから、また何かあったら仕事を回してくれると助かる」
「ええ、何かあったら。 またお声をかけますよ」
 ぼくの仕事は請負人。――ようするになんでも屋だ。
 だけどぼく個人で出来ることなんて高が知れている。だから、ぼくは仕事のたびに色んな人に助けてもらっている。みいこさんもそんな人たちの一人だ。
 本当にこの人には良く助けてもらっている。今も、昔も、変わらずに。
 いくら感謝してもしきれない。
「いの字。 そろそろ行ったほうが良いんじゃないのか。 相手を待たせてしまっては悪いだろ」
「そうですね。 それじゃあ、ぼくはこれで失礼します」
「うん。 道中気をつけてな」
 このままみいこさんと話しているのも魅力的だけど、玖渚との約束があるのでそろそろお暇する。別に時間を決めているわけでもないが、あいつをあんまり待たせるのも悪い。
 そんなわけで、巫女子ちゃんにプレゼントされたベスパ(命名、ミココ号)に跨り、玖渚の待つ城咲のマンションへと出発する。
「あ、そういえば――」
 今頃になって思い出したけど、今日は午後から姫ちゃんと崩子ちゃんを動物園に連れて行ってあげるって約束してたんだっけ。ぼくのフロッピーディスク並みの容量しか持たない記憶力は、モノの見事にその約束を忘れ去っていた。
 仕方ない。どっちにせよ、玖渚からお声が掛かった以上、今日は中止だ。二人には後で誠心誠意謝っておこう。二人とも楽しみにしていたようだから簡単には許してもらえないかもしれないけど、甘んじてそのお怒りを受け入れるしかない。
 動物園にはまた今度連れて行ってあげるとしよう。正直、崩子ちゃんを動物園に連れて行くのは怖くもあるんだけど。
 動物園か。檻の中に閉じ込められた動物を鑑賞する場所。人間とその他の動物との差を認識させるためなのか、それとも既に失ってしまった野生を羨むための場所なのだろうか。理性という名の鎖に繋がれた人間との違い。
「現実逃避の戯言だよ」
 二人から受けるお怒りは、あまり考えたくは無い。
 ペスパを走らせるぼくの前方にある信号は赤だった。



   

 昔々、あるところにどうしようもなく救われない少女とどうしようもなく救いようのない少年がいた。
 本来ならそれだけのはずだった。お互いの物語にもならない人生を歩んで終わるはずだった。そしてそれこそが正しい在り方で、それこそが救われない少女にとっても救いようのない少年にとっても、唯一の救いとなるはずだった。
 しかし、二人は出会ってしまった。
 偶然としか言いようがない状況で。
 必然としか言いようのない心境で。
 奇跡のように出会ってしまった。
 それが全ての始まり、物語の始まりだった。
 救われない少女は完全無欠に壊された。
 救いようのない少年は完膚なきまでに壊した。
 それは――ありふれた、救いのない物語だった。

 玖渚の家に着いたぼくが、まず真っ先にやらされたのは昼飯作りだった。
 時間帯的にもお昼時だし、玖渚は作れないのだから十分に予測範囲内のことだ。
 ゆっくりと時間をかけて食べ終えた昼食を下げて、今はすっかり恒例となった玖渚の髪をとかしている。
 玖渚の、黒い、髪。
「うん? どうしたの、いーちゃん」
「いや、なんでもないよ」
 そんなつもりはなかったけど、ぼくの手つきが変わったのか、不思議そうに見てくる玖渚にぼくは首を振って答える。
 玖渚の目。
 ほとんど視力を失ったその目は、片側だけ僅かに青を帯びている。
「いつもの考え事?」
「そんなところ」
「お仕事のことかな」
「友のことだよ」
 ぼくの言葉に玖渚は嬉しそうに笑う。
 玖渚友。ぼくの唯一無二の親友。何においても優先すべき代替のない存在。ぼくが憎み、殺意すら抱いて徹底的に破壊し尽くした女の子。
 何より大好きで、憎たらしいほど愛している――女の子。
「ふーん、本当かな。 本当なら嬉しいけど」
「当たり前だろ。 いつだってぼくはお前のことばかり考えてるよ」
「ぶはっ」
 思いっきり噴出しやがった。
 本当によく笑うやつだな。
「すっごい似合わないね。 それにすっごい嘘っぽいよ」
「失礼なやつだな。 似合わないのは認めるけど、嘘じゃないさ」
「えー、でもいーちゃんすぐに嘘つくし」
 玖渚の言うとおり嘘吐き騙し、詐称はぼくの得意分野――と言うよりも専門分野だ。
 あらゆる真実を騙して欺く、戯言遣い。
 だけど――。
「本当だって、ちったあぼくのことを信じろよ」
「信じてるよ。 うん、いーちゃんのことはちゃんと信じてる」
「信じなかったじゃないかよ」
「それはそれ、だよ」
 くすくすと玖渚は笑う。
 身から出た錆。因果応報。自業自得。詐欺師、詐欺に溺れる。
 ぼくが今まで吐いてきた嘘の数々を考えれば仕方ないんだろうけど、ちょっとショックだ。
「いーちゃんは変わらないからね」
「なんか、お前にそれを言われるのも久しぶりだな」
「うん。 その頃からいーちゃんは変わってないよ」
 変わろうと思った。成長してやろうと思った。
 だけど、結局ぼくは相変わらずの戯言遣い。ぼくは一人では何も出来ないままだ。
 誰かに背中を押してもらわなければ動くことが出来ず、誰かに支えて貰わなければ立つことすら危うい。誰かが居てくれなければ生きることすら出来ない。
「昔からいーちゃんの周りには人がいっぱいだったよね。 みんな、いーちゃんのことが大好きだった」
「そんな事ないだろ」
 ぼくの周りに人がたくさんいたのは確かだけど、ぼくはその人たちに、唯一人の例外もなく、ぼくは迷惑と災厄を撒き散らしてきた。
 恩を仇で返して、好意に憎悪を与えてきた。

 お前なんか――生きているだけで他人の迷惑だ。

 だからこそあなたは――死んだ方がいいんです。

 ぼくは死にたくて死にたくて、死に続けてきた。
 それは今でも変わらない。
 変わったことと言えば、死にたくて死にたくて、それでも死にたくないと思うようになったくらいだ。
「いーちゃんは本当に変わらないよ。 どんなに変わってもいーちゃんはいーちゃんのままだよね」
 玖渚は嬉しそうに、そんなことを言う。
 玖渚の言う、ぼくの変わらないところとは何を指しているのだろう。相変わらずの戯言加減だろうか。
「でも、前よりもいーちゃんの周りが騒がしくなってきたのも本当だよね。 正直いーちゃんの隣にいつまでもいられるか不安になるかな」
「何言ってんだよ。 前も言ったろ。 ぼくの隣の席は永久にお前の指定席だよ。 ああ、そうだな。 それだけは確かに前から今も、それにこれからも変わらないよ。 お前こそ隣の席はぼくのために空いてるんだろうな」
「もちろんだよ」
 ぼくに、こいつの隣に居る資格があるのかは分からないけど……それでもぼくはこいつの隣に居たい。
 そう、こいつの隣だけは、誰にも譲る気にはなれない。
「でも、いーちゃんは……えっと浅野みいこさんだっけ? に告白して今も返事待ちなんでしょ」
「なんで、お前がそんなこと知ってんだよ」
「潤ちゃんから聞いた」
 あの人は……何をベラベラ喋ってんだ。
 つうか、あの人にだって話しちゃいないぞ、ぼくは。
「いーちゃんの浮気に対しても寛容のつもりだけど、嫉妬くらいはするんだよ」
 失礼な。ぼくは別に浮気なんかしていない。確かにみいこさんに告白して一度は振られたと言え、もう一度チャンスが巡ってきたのは事実だが、そんな浮ついた気持ちで待っていない。ぼくは真面目にみいこさんの返事を待っているんだ。ましてや、ひかりさんなりてる子さんなり、あるいはあかりさんがもう一度、お試し期間に来てくれないかなとか、そんなことはこれっぽっちだって考えちゃいないのだ。
 …………。
 いや、戯言ですよ?
「いーちゃんはモテモテだね」
「やめてくれ。 みいこさんにも言われたけどそんなんじゃないよ」
「いーちゃんは女の敵だね」
 それは確か、崩子ちゃんに言われた……んだったけかな。
 なんか今日のこいつはやけに絡んでくるな。もしかして本気で少し怒っているのだろうか。
 あの、笑顔しか――楽しいしか知らなかった、玖渚が。
 そう思ってしまうと、なんというか、その……こう、思わず――。
「あー、いーちゃん何笑ってるんだよ」
「笑ってなんかいないよ。 見間違いだろ」
「いくら目が悪くなっても、いーちゃんの顔だけは見間違わないよっ。 絶対に笑ってるっ」
 堪えきれず、今度はぼくのほうが噴出してしまった。
 しまいには声を上げて笑い始めたぼくを――玖渚はじっと睨んでくる。
 やれやれ、睨んでるその顔は怖くはないけど、このまま機嫌を損ねたままだと、後が怖い。
 そろそろ機嫌を治してもらわないとな。
「友」
 ぼくは言う。

「愛してるよ」

 それは、変わることのない想い。




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