1 いきなりこんな事を言うのも何かと思うが、僕は友達が少ない。本当に自分で言っていても虚しくなるが、異常な交友範囲を持つ妹たちと比べるまでもなく、友達と呼べるような間柄の人間が同世代の平均数よりも少ないらしい。あの地獄のような春休みまでは友達と呼べる人間は皆無だったと言っても良い。出来れば言いたくないのだが、事実なのだからしょうがない。 そんな事もあり、僕はどうにも遊ぶことが苦手だ。その事を小学五年生に指摘され、何とかその場は上手く誤魔化したが、その指摘は結構僕の心の深いところまで抉ってくれた。ガハラさんとのデートプランを立てるときも、デートどころか遊びに行くと言う経験も少なかった僕には非常に難題となったのも痛々しい思い出だ。 だから僕は休日や祭日だけではなく、イベントがある日も苦手だった。それはあの母の日に限らず、イベントとなると異常にテンションが上がる妹たちが鬱陶しいと言うのも、苦手意識に拍車をかけている。拍車というよりも火に油を注ぐ行為だ。油に火種を放り込む行為と言ったほうがあの妹たちにはしっくり来るかも知れない。 正直なんでわざわざこんな面倒な日を作るんだとさえ思う。一年中全ての日が平日でいいじゃないか。何も特別なこと無い日の何が悪いと言うのだ。普通サイコー!。 なんて、僕がどれだけ嫌がったとしても。名前がたとえ『暦』だとしてもだからと言って、僕に世間で定着しているイベントを無くしてしまえるはずもなく、その日はどんどん近づいて来て当日になれば、当然のようにそのイベントが催される。 そんなイベントの中でも日本では割とマイナーなくせに、何故か毎年被害にあうことから僕としては真っ先に無くしてしまいたいイベントであるハロウィンの日に彼らに出会ってしまったのは、本当にただの偶然だった。 2 その日、朝いつも通り僕を起こしに来た妹たちがいつもと違う事を言ったことで僕は今日が何の日か強制的に知る羽目になった。未だ夢心地を抜け出せないでいる僕に対して妹だちは「トリックオアトリート」と言いながら手のひらを上にして僕の目の前に突き出してきた。僕はたった今、妹たちに起こされたわけで、そんな僕がお菓子など用意しているはずも無い。そんな事も分からないほど僕の妹たちはいつの間にか馬鹿になっていたのだろうか。いや、元々馬鹿だったかもしれない。学校の成績が良い事と頭が良い事とは別にイコールで結ばれるものではない。 まあ、たとえ僕がお菓子を手元に置いてあったとしても、大して仲が良いわけでもない妹たちにくれてやるような義理は無い。それでも毎年計ったように偶然僕の手元にお菓子があるときに奇襲をかけてくるのだが、今年はどうやらその奇襲は失敗したようだ。奇襲としては過去最高の形だが、目的を達成できない以上それは失敗以外の何物でもない。 そんな訳だから、珍しく朝からちょっと気分が良くなった僕が勝ち誇った気分で軽く妹たちをあしらってやった。 それが失敗だったのかも知れない。 「それじゃあイタズラだね」 そう言うと、妹どもは僕に「イタズラ」とやらを決行するために襲い掛かってきた。 いくらこちらが年上であり兄であるとは言え、二対一である。上の妹は僕よりも体格が良く、空手(こいつが今まで披露した技の数々や話を聞く限り詐称の可能性が濃厚)を習っているために僕が敵うわけもなかった。おまけに卑劣なことに妹たちは凶器で武装していたのだ。 その凶器は『歯ブラシ』。 その凶器を持って行われたイタズラとは名ばかりのDVの詳しい内容は伏せさせてもらう。誰だって自分の敗北の歴史なんて好き好んで語りたくは無いだろう。しかも相手が自分の妹ともなれば尚更だ。 そんな訳で、僕のテンションは勝ち誇った状態から恥辱に塗れた敗北感によってどん底にまで落とされていた。 やっぱりイベントがある日には碌な事が無い。何も無い平日こそが最大の休日だ。 「…………はぁ」 僕は学校へと向かう通学路の途中、自転車を漕ぐ足を止めて深々とため息を漏らす。 それは朝っぱらから妹たちに受けた仕打ちに対するものであると同時に、それによりどん底近くにまで落ち込んだ気分に更に重石をつけるようなものを発見してしまったからに他ならない。 下の妹よりも小さな矮躯。その身体に不釣合いな、いっそその身体のほうがオプションなのではないかと錯覚を憶える大きなリュックサック。動くたびにその頭の両サイドでピョコピョコ動くツインテール。 見間違うわけも無い。 八九寺真宵が一体出た! 「………………」 本当に勘弁して欲しい。こっちは既に生意気な妹どものせいで気落ちしていると言うのに、なんでそんな時にあのクソ生意気な小学生に出会ってしまったのだろうか。 あー、はいはい。どうせアレだろ? みんな「また始まった」とか思ってるんだろ。言わなくたってみんながどう思ってるかくらい僕には分かってるさ。だけどみんなは分かっていない。あんなのは出版用に用意された台本に従ってやった、いわばお芝居だ。僕と言うキャラクターに特徴をつけるために仕立て上げられた仮初の姿でしかない。こんな言い方をしてしまうのは悪印象を与えてしまって言いたくはないのだが、今までの僕が八九寺に対してやっていたアレは全てヤラセだ。 僕は今まで仕方なくそれに従ってきた。僕ももう大人だ。与えられた役割を果たすのに不平不満を言うつもりは無い。だが、今回は正式な仕事ではない。仕事から離れたプライベートでまで与えられたキャラクターを演じる必要はあるまい。むしろそこら辺の区別をしっかりとつけることこそが大人と言うものだ。 んー、しかしなあ。そうは言っても、相手の八九寺はまだ子供だ。そこら辺の分別が良く出来てはいないだろう。いきなりここで態度を変えてしまったら、幼い八九寺の心に大きな傷跡を残してしまう事になるかも知れない。そうならないように配慮することも大人の勤めだろう。 とは言え、いつまでも虚構だけを見せているわけにも行かない。少しずつでも現実を受け入れさせなければならない。そうだな、今日のところは僕らしくないがイベントに乗っかって「トリックオアトリート」なんて声をかけてみるのも良いかもしれない。そうして、もしものために持ってきた飴でもあげて僕と言う人間の本当の姿を少しずつでも知ってもらおう。 妹には上げなかったが、他人である八九寺にはある程度甘えを与えてやるとしよう。まったく面倒だが、それも大人である僕の務めというものだ。それに、この放課後には僕の影の中に潜んでいる金髪幼女にもドーナッツを買ってやる予定だ。それなのに見た目は同じ子供である八九寺には何もしてあげないと言うのは不公平な気もしていた。全く、いろんなことに気を使わなければいけないというのは大人の辛い所だな。 さて、予防線も張ったことだし――逝こうか。 「八九寺ぃぃぃぃぃぃ!! トリックオアトリート!!」 「きゃあああああああああ!!!」 僕は忍の 「おかしをくれないと悪戯しちゃうぞ、このこの!」 「きゃー! きゃー! きゃー!」 「ああ、本当に八九寺は可愛いなあ! 幼くて可愛い少女だな! 食べちゃいたいくらいだ! っていか食べさせてくれないと悪戯し尽くしちゃうぞ!」 「ぎゃああああああああああああ!!」 僕の腕の中で大暴れをする八九寺。 あー、やっぱ大人ならちゃんと世間のイベントに付き合うもんだよな。 「おかし(幼い可愛い少女の略)をくれないと悪戯するぞ」なんて、実に素敵な言葉だ。 ハロウィンサイコー。 「がうっ!」 「うおっ! 痛てぇえ!?」 しかし食べられたのは僕だった。 完全に浮かれて油断していた! おかし(お頭が壊滅した少年の略)はむしろ僕のほうだった。 「がう! がう! がう!」 「落ち着け、八九寺! 僕だ! 阿良々木だ!」 「ワオォォン! オレサマ、オマエマルカジリ」 「戻って来い、八九寺! お前は獣じゃなくて人間だろ? 自分の種族を忘れるな」 「グゥゥ」 ようやく大暴れをやめた八九寺だっただが、しばらくは獣のような唸り声を発していた。 うーむ、友好的に接したはずなのに一体どこを間違えてしまったのだろうか。 「ふー、ふー。 おや? どろろ木さんじゃありませんか」 「人を大作漫画に出てくるマスコットキャラみたいに言うな。 僕の名前は阿良々木だ」 「失礼。 噛みました」 「違う、わざとだ……」 「かみまみた」 「わざとじゃないっ!?」 「神斬った」 「神は死んだのか!?」 まあ、ここまではお約束。 しかし、僕の体質と語源を考えると「どろろ」と言うのも言いえて絶妙だな。まあ僕は決してマスコットというタイプでもないし、盗みなんていう犯罪行為に手を染めるつもりも無いからキャラ被りの心配は無いけど。 「キャラ被りの心配は確かに皆無ですが、阿良々木さんの場合はもっと深刻な犯罪に手を染めているのではありまえんか? 今までのと言うか、今さっきご自分が私にした事を思い出してください」 「何を言うんだ。 友達と楽しく遊ぶ事が犯罪だとでも?」 「阿良々木さんが一方的に玩んでいるだけでしょう! 全く本当に次の話は牢獄から担っても知りませんからね」 むぅ。世知辛い世の中だ。友達と遊ぶだけでこんなに肩身が狭い思いをする事になるとは。いつから世界はこんなに冷たく荒涼としたモノになってしまったのだろうか。 「しかしな、八九寺。 それを言うならお前だって犯罪を犯してるんだぜ。 お前は僕からとんでもないモノを盗んでいったじゃないか」 「阿良々木さんの心ですか?」 「僕の常識だ」 「私に罪を押し付けるおつもりですか? 八九寺真宵は罪深い女になってしまいました」 物憂げに溜息を吐く小学五年生だった。 「確かに私には峰不二子のような魔性の女の貫禄があるのでしょう。 生来持つ私の女性としての魅力と言うのは隠せないものですね」 「まあ、ちゃっかりしてるようでツメが甘い所なんて似てるとは思うけどな」 何だかんだで彼女が最後に儲けた話と言うのはあまり見たことが無い。 「ところで阿良々木さん。 先程の挨拶から察するに本日はハロウィンのようですね」 「ん? ああ、そうなんだよ。 僕ってあまりこういう行事が好きじゃないからさ、どうも朝から気が滅入っちゃって」 「とても先程の様子を見ると気が滅入っているようには思えませんでしたが……もしかして人のネタをパクって噛みましたか?」 「あん? 一体僕が何を噛んだって言うんだよ」 「違っているを滅入っていると……」 「酷いこと言うな!?」 しゃっくりしていしまいます。 まあその前に、それだけの事を言われても仕方ない事を僕がやったいう話もあるかもしれないが。 「しかしと言う事はですね。阿良々木さんは私にお菓子をくれるということですね。 考えてみれば、初めて会ったときに約束されたアイスクリームも未だに買って貰っていないのですが、まあその利息分と今までの私の肉体に対してお触りの対価としてコアラのマーチを頂きましょうか」 「お前も大概に貞操が安いな!?」 本気で友達としてこいつが心配になってくる。この田舎でも危ない大人がいないとも限らない以上、こいつの警戒レベルの低さはハラハラしてしまう。やはり僕ががっちりと捕まえていないといけないのではないかと使命感が燃え上がる。 「しかし、これだけでは足りませんね。 それではきのこの山を頂きましょうか」 追加要求の上に微妙に値段が釣りあがったものを要求された。初めは安易な代価から入り、徐々に値を吊り上げて感覚が麻痺してきた頃には総額でとんでもない額を請求する詐欺師の手口だ。 このまま放っておくと、僕は小学五年生に絞りつくされる恐れがある。なんとしても早急に手を打たねばなるまい。しかし、かといってそれなりの対価を覚悟しなければなるまい。何せこんなあくどい手口を使ってくる相手だ。おそらく警戒レベルの低さもこちらを油断させるためのフェイクなのだろう。八九寺真宵は見た目通りのお子様ではないのだ。その頭の回転の速さは誰よりもこの僕が知っている! 「八九寺、飴を上げようか? オレンジとりんごどっちが良い?」 「きゃっほーい。 オレンジ味を下さい」 本当にノリの良い奴だ。奇抜なだけではなく、繰り返しと言うギャグの基本もきっちり忘れない。 しかしまあ、抱きつく前から決めていた事でもあるし、飴は素直に上げよう。あまり口だけだとそれこそいつか纏めて請求されて痛い目に遭いそうだ。 しかし僕が飴を取り出して渡そうとすると、ホンの一瞬、周りに誰かがいても僕にしか確認できないようにだが、八九寺は見下げ果てたとでも言いたげな表情を浮かべ、仕方ないとでも言うようにこっそりと溜息を吐いてから、僕から笑顔で飴を受け取った。 なんだ? 僕の飴を上げるという行為は駄目なのか? お前は僕にどれだけのレベルを要求してるんだよ!? 「ところで阿良々木さん。 これから学校へ行くようですが、お時間のほうは大丈夫なのですか?」 「ん? ああ、そうだな。 もうそろそろ急がないといけないか」 いけないのだが、この妹たちにイタズラされた以上の敗北感を引き摺ったまま行けと言うのか。いくらなんでもそれは酷に過ぎるぞ。まさか僕は八九寺に見限られたのではあるまいな。ありえないとは思うが僅かでも可能性があると言うなら、こんな不安な気持ちで八九寺と分かれるのはごめんなのだが、学校に遅刻していくわけにも行かない。遅刻していったら羽川に何を言われる分かったものではない。それはそれで楽しみなではあるけど。 「ときに阿良々木さん。 もう収穫祭などをやるようないい時期になってきましたが、その後お勉強の収穫はどうなのでしょうか?」 「んー、夏休みの頃のような伸びはさすがに今はもう無いけど、それでも教師が良いから、順調に伸びてきてはいるよ。 ただその分、羽川に負担を掛けているんじゃないかってのが心配だけどな」 「ああ、そう言えば戦場ヶ原さんは家庭教師を降ろされて、今はバサ姉が一人でお勉強を教えていらっしゃるんでしたっけ」 そうなのだ。夏休みだけではなく、学校が始まってから放課後の家庭教師からもガハラさんは外されてしまったのだ。夏休みの間にあった一件でデレどころかドロドロになってしまったガハラさんは僕の家庭教師には不適格とされてしまったのだ。別に勉強を教えなくなってしまったわけではない。今まで以上に同じ大学に行くと言う目的に対して熱心な面を見せてくれるようにはなったのだが、そこに今までのような厳しさが無くなってしまった。ガハラさんと羽川での飴と鞭の勉強法が今では飴と水飴状態になってしまった。 とは言え、羽川も放課後の時間を全て奪うのも悪いと言って、三日に一日は今までのようにガハラさんが僕に勉強を教えると言うことになった。 ガハラさんは渋ったようだが、羽川の説得(その内容は聞いていないが)によりようやく了承したのだった。 「何だかどんどん戦場ヶ原さんは不要なキャラクターになってきている気がしますね」 「お前は貝木か。 大体僕が勉強している目的を考えれば……」 うぅぅ。やっぱり未だに人にこういうこと言うのは気恥ずかしい。 「やれやれ困ったものですね。そんな甘っちょろい事で今のメディア業界を乗り切る事なんて出来ませんよ」 「だからそういう次元をぶっ飛んだ事を言うな。 それこそ印象が悪いぞ」 「私は阿良々木さんと違って、ただ自分の人気だけを心配してさえいれば良いというわけにはいかないのです。 ちゃんと作品全体のバランスを考慮しなければなりません」 八九寺Pは気苦労が多いようだ。 「まあだからと言って自分の人気を蔑ろにするつもりもありませんけどね」 「結構欲深いよな、お前は」 「その辺は私も子供ですから。 なるほど、それは実に子供らしい。お菓子もイタズラも子供は大好きなもんだ。 「しかしそうなると八九寺。 お前は僕に何かしらのイタズラをするのか?」 「うーん、どうでしょうね。 私がイタズラをしても阿良々木さんにとってはお菓子にしかなりそうにない気がします」 むぅ、今一つ反論しづらい。 しかし、最近は自分でも自分の言動がけっこう危ない橋を渡っているよな気がする。 「おっと、そろそろ本気で時間がやばいな。 悪いけど八九寺、僕はもう行くぞ」 「はい、分かりました。 次にお会いするときまでにとびっきりのイタズラを考えておきましょう」 「ああ、それは楽しみにしておくよ」 「ええ、生まれてきた事を後悔するくらいのを用意しておきましょう」 「それはもうイタズラの範疇じゃねえよ」 そうして、僕と八九寺はお互いに次の再会があることをまるで疑わずに別れた。 って、別に何があるわけじゃないんだけどさ。 3 放課後。羽川とのお勉強会を終えた頃には、すっかり日が沈んでしまっていた。さすがにこの時期になると日が沈むのもかなり早くなってきている。図書館が閉館時間になり出て行かなくてはならなくなった頃には、外はもう暗くなってしまっていた。勉強のほうは今まではガハラさんが担当していた鞭を羽川が行使しなくてはならないようになったため、教え方が厳しくなったのだが、しかし僕としては羽川に振るわれる鞭と言うのもそれはそれで嬉しいもので、結局は飴しか残らない始末だ。 こんな事ばっか言ってるから、最近では羽川に見捨てられそうになっているというのに、僕って奴はどこまでも嘘がつけない奴だよな。 とにかく、そんな辛くても嬉しい羽川の補習が終わり、今は自転車を我が家に向けて走らせている。カゴの中にミスタードーナッツの箱を入れて。 何故そんなものを入れているかというと、まあお察しの通り僕の影の中に居候している金髪ロリ吸血鬼もどき、忍野忍に対して与えるためだ。僕に対して口を利いてくれるようになったのは素直に嬉しいのだが、その分要求がエスカレートしてきて、僕の財布の中身はどんどん吸い取られていってしまっている。吸血鬼ではなく吸金鬼だ。 しかしまあ、今回の支払いに関しては致し方ないと割り切るしかあるまい。今朝方、僕と八九寺の逢瀬を万が一にでも邪魔されないようにと交わした密約だ。八九寺との貴重な一時と比べればこの程度の出費など痛くも無い。 ちなみに、補習が終わった後に羽川も誘ってみたのだが丁重に断られた。羽川も自分自身の卒業後のために色々と準備をしなくてはならないらしい。 …………はあ。 そうなんだよなあ。卒業したら羽川は世界中を旅する事になっている。そうなるともう今までのように会うことが出来ない。もちろん僕たちの友情がその程度で無くならないとは信じているが、やはり寂しいものがある。出来うる事ならば離れたくは無い。 しかし当然ながら僕には――いや、誰にだって羽川の意思を止める権利など無い。この旅はいつも他人の事を優先してしまう羽川が羽川翼自身のために決めた事だ。もしもそれを邪魔しようという者がいるのならば、僕はその障害を全力を持って取り除くつもりだ。 羽川には出来れば行ってほしくないが。 羽川の邪魔は絶対にしたくない。 そんな訳で、僕は一人ミスドへ行く事になってしまったわけだ。正確にはそもそもの発端である、影に潜んでいる一匹がいるわけだが。しかし冷静になって考えてみると、金髪美少女を連れてミスドに来店する高校生ってかなり目立っていしまっているのではないだろうか。そう一度思ってしまうと、店員や他のお客さんの視線が非常に意味ありげなモノに見えてしまう。 ちなみにカゴに入っている分は妹たちへのお土産だ。別にこれは善意ではなく、また朝のようなイタズラを仕掛けられたら非常に迷惑な上に、今度こそ色々と危なそうなのでその予防線である。 折角、八九寺と遊び、羽川に勉強を教えてもらって気分が良かったのに、また気分が沈んでしまう。我がながら浮き沈みが激しいと思う。これだからイベントのある日は苦手なのだ。 と、別に意識的にそこに来たわけではなく、ただ偶然にミスドと家の間に挟まる形であった、かつて一人の浮浪者が居座っていた私塾の廃墟の前を通りかかった時、その明かりなどあろう筈もない廃墟の中に明かりが、まるで迷うように、まるで惑わすように、まるで誘うように揺らめいているの見た。 僕は思わず自転車のブレーキを握り締めた。 耳障りな摩擦音が近所迷惑にも響き渡るが、今の僕にはそんな余裕が無かった。直ぐに明かりが見えた窓を見上げるが、割れた窓ガラスとその奥に覗く闇しか見えない。 「見間違い……じゃあねえよな」 眼を凝らすがやはり見えない。忍に血を与えたばかりならばもう少しはっきり見えるのだろうが、今の僕の吸血鬼性ではこの程度が限界だ。 まあ、もしかしたらこれから血を与えなければならないような事態になりかねないかもしれないが。 「やれやれ、お前様は本当に自分から厄介ごとに首を突っ込むのお。 いや、そのお陰で一時は助けられ助けられた身でいうのもなんだが、呆れ果てるわ。 お前様よ、いつまでもこの調子ではいくら吸血鬼の残り粕があるとはいえ、命がいくつあってもたりんぞ」 なんて、幼く舌足らずな声に不相応な不遜な言い回しに自転車へ、より正確に言うならばミスドの持ち帰りようの箱を入れているはずのカゴへと振り返る。 そこには予想通り、綺麗な金髪をした少女がすっぽりとカゴの中に納まっていた。本来、そこの入っていたはずのミスドの箱は少女の腕に収まっていた。あまつさえ開封されていた。未だに手は着けられていないが、僕に対して言葉を吐きながらもその爛々と輝く眼は箱の中のドーナッツに釘付けだった。 自転車のカゴに納まっているという奇抜な状態と不遜な物言い、それにあまりにも綺麗過ぎると言う点に眼を瞑れば、その様子は年相応の少女だが、かつては伝説とも謳われた怪異の王、吸血鬼である。 っていうか、搾りカスとは言え吸血鬼がドーナッツに眼を輝かせてどうするんだよ。いくら怪異がまわりの環境に影響を受けやすいとは言え、お前いくらんでも世俗に染まりすぎだろ。 「おい、忍」 「ふん、分かっておるわ。 かつてはそのお前様の生き血を搾り取り殺して生き長らえた儂が言えたセリフではないがな。 いやしかし、だからこそ儂が言うべきではないかと思うってな」 「何度も言わすな。 それはもう終わった話だろうが。 っていか、そのことじゃねえよ」 僕はじろりと忍を睨みながら(と言っても、忍の眼はドーナッツから動いていないが)言う。 「勝手に食うなよ。 っていうか食うな。 それにお前の分はねえぞ」 「なんじゃと!?」 ようやく忍はこちら向いてくれた。 その眼は驚愕に見開かれていた。 今まで宿っていた輝きは完全に消え去り、その眼からは力が失われている。 だが見開かれていた目は細まり、力を取りも出していく。 それは確かに吸血鬼っぽい眼だったが、この状況でやられても威厳と言うものをまるで感じられない。 「おい、主様よ。 よもや今朝方の契約を忘れたわけではあるまいな? 反故にするわけではあるまいな? 確かに今では主従の関係が逆転しているが、それでもあまりにも無体な仕打ちには従者とて噛み付くことがると言う事を失念しているのではあるまいな?」 「っていうか、お前はさっき店内で食べたろうが」 まさか忘れたとは言わさねえぞ。 朝のこともあり今回はかなり大盤振る舞いしてやったんだからな。 「ふん、あの程度で儂が満足するとでも思うておるのか? 儂が本気になれば店内のドーナッツ全てを平らげて魅せるわ!」 怪異の王の一喝が逢魔の刻に響き渡る。 そして大空の彼方へと虚しく掻き消えていった。 「それは妹たちの分だって言ったろうが。 あの二人は勘が良いんだから、ミスタードーナッツによった事がバレて、お土産が無しと知れたらまた突っかかってくるぞ。 その時僕がボコボコにされたらその感覚はお前に伝わるんだぞ」 「ふん、儂がその程度に屈すると思うのか? ドーナッツのためならばその程度の辛苦受け入れるわ」 本当にこいつは俗に染まりすぎだろ。 俗に染まったって言うか、変な方向にキャラが固定されてきてる気がする。 んー、なんかこうもの悲しい感じがする。 「お前さ、一応は元々は怪異の王とまで言われた伝説の吸血鬼なんだからさ、矜持とか尊厳ってモノがあるだろう。 他人のドーナッツを盗み食いしたなんて、それらが傷を負う事になるぞ」 それも致命傷だ。 だと言うのに、それでも忍は口元に吸血鬼らしい凄惨な笑みを湛える。 「のう、主様よ。 未だ短い時しか生きておらぬお前様のために、忠実な僕として儂が大事な事を教えてやろう。 良いか、確かに主様の言ったものも大切だ。 解く長い時を生きる儂らのようなタイプの怪異となればなおさらだ。 しかしな、主様よ。 それでも、それらよりも大切なものと言うのが確かにあるんじゃよ!」 「それは僕も認めるが、それは断じてドーナッツじゃねえよ!」 やはり所詮は搾りかすだった。 なんで僕の周りにはこういう訳の分からない、ズレた価値観を当然のように所持し、泰然と主張する連中が多いんだ。 「言っておくがな、忍。 それに手を出したら、もうしばらくはお前が起きている時間にはミスドにはいかねえぞ。 それどころか、食べ終わって空になった箱とレシートだけをお前の目に付く場所に置いておくぞ」 「な、なんじゃと!?」 本日二度目の驚愕だった。 一度目よりも衝撃が大きそうである。 「な、なんと言う卑劣。 なんと言う外道。 お前様はやはり吸血鬼よりもずっと鬼じゃな」 しょんぼりと箱を片付け始める忍。 眼に涙を浮かべないのはせめてもの矜持、尊厳なのだろうか。 「まったく、本当にお前は可愛い奴だよ。 さて、面白会話パートはここまでだ。 ここからは探索パートに切り替えるぞ」 そう言っていつもの裂け目から敷地内に入っていく僕の後ろ忍がついてくる。どうやら本当に一緒に来てくれるらしい。 うーん、ここのところ忍に頼りっきりな感があるよなあ。これじゃあ忍野がいた時と変わらない気がする。僕一人で出来る事なんて限られてるけど、出来るかも知れない事まで頼ってるんじゃないか。 ブラック羽川の忠告じゃないが、忍が喋ってくれるようになってからそこら辺の距離感と言うか、分別に緩みが出てきている気がする。 友達感覚なんていい迷惑。 馴れ合いなんて、そんな風に思っていないし、思うつもりも無いけど、そこら辺忍自身はどう思っているんだろうか。 「って、何持ってんだよ」 「ふむ、お前様にはこれがハープにでも見えるのかの?」 もちろん見えない。 っていうか、楽器には見えない。 ミスドのお持ち帰り用の箱だった。 「なんで持ってきてるんだよ」 「何を言う、無用心にあんな所において眼を離した隙に盗まれたらどうするつもりじゃ。 不甲斐ない主様のためにわざわざ気を使ってやるとは儂は何とも思いやりのある従者よの。 どうじゃ主様よ。 この忠義の僕に褒美としてこの中身の半分を分け与えてはくれぬかのぉ」 「今度また連れて行ってやるから、それで我慢してくれ」 それで完全に納得したわけではないだろうが、とりあえず黙ってくれた。 ミスドの箱は持ったままだが。 うーん、こういう要求は結構遠慮なく迷惑なくらいに言ってくるけど、存在としての問題、シリアスな不満っていうのはそれこそ久しぶりに忍が声を発した風呂の件以降は言ってこない。お互いにその件に関しては既に自分たちの中で決着が着いた事とは言え、それでもその後の扱いにだって不満が無いわけがないのだ。 結局、そこら辺はだんまりだったあの頃のままって訳か。 そう考えると、お菓子くらい上げても良いのかも知れない。 こういう考えがそもそも問題なのかも知れないが。 まあ今は目の前の問題だ。日が落ちてしまえば、電気など通っているわけも無い廃墟の中は周りの明かりも遮られて本当に真っ暗だ。今まではこういう時間に訪れるときは明かりを持ってきたが、当然今回は用意しているわけも無いので自分の中に残っている僅かな吸血鬼性、この場合は夜目の良さに頼るしかない。 さて、明かりが見えたのは三階だったとは思うけど、念のために一つずつ覗いているが今のところは特に何も見当たらない。さすがに隅々まで見て回ったわけではないが、この暗がりだ。先程の明かりがあれば見逃す事はあるまい。明かりを消して息を潜めているというのならば、それはそれで構わない。そういう行動をする相手ならば問題は無いのだ。 そして、問題の三階。 今のところは何の気配も――ん? 「歌、かのう?」 忍の言うとおり、歌らしきものが聞こえてくる。はっきりと歌とはわからないが、何だかリズムに乗せた声が聞こえてくるのだ。それもこの寂れた真っ暗な廃墟に似つかわしくない陽気な感じのが。 よくもまあ、こんなのに今まで気付かなかったものだ。これなら中に入るまでも無く外からでも分かりそうなものなのに。 しかし、それはともかくとしてどうしようか。なんだか思っていた危機感と言うか警戒心が薄れていく。もしかしたらまた、怪異を払う専門家や怪異そのものが住み着いたりしているのではないは無いかと思ったのだが、どうやらアテが外れたようだ。 まあ、外れたなら外れたで構わない、というかありがたい事だ。散々周りの者に厄介事に首を突っ込むと揶揄されていてる僕だが。別に好き好んで厄介事を望むような悪趣味は無い。何度も言うが僕は普通で平凡な平日をこそ好んでいる。 どうも、肝試しか何かで潜り込んだ連中がそのまま乱痴気騒ぎにでも移行したのだろう。ならばこれ以上ここに留まっても無意味だ。無意味どころか、お互いに面白いことにはなるまい。 「なんか、思い違いだったみたいだな。 邪魔にならないように帰るか」 「ん? んー、まあお前様がそう言うのならば構わんぞ」 あん? なんだ、その妙に引っ掛かる言い方は? 「なんだよ、忍。 なんか気に掛かることでもあるのか?」 「いや、儂はあくまでお前様にくっついて来ただけじゃ。 お前様が良いと言うのなら良い」 やっぱり引っ掛かる言い方だ。 確かにここの様子を見に来たのは僕の意思で忍はそれに付いて来ただけで興味は無いのだから、言葉の内容的にはその通りなのだが、何かが引っ掛かっているようにも取れる言い方が引っ掛かる。 なんだ? 何か僕は見落としているのか? 「ほれ、さっさと帰って、早くドーナッツを食べようではないか」 「いや、だからそれはお前の分じゃねえって言ってるだろう」 「ふふん、分かっておるわ。 お前様のようなのをツンデレと申すのであろう」 「自分にとって都合の良い解釈してんじゃねえ! そんな事のためにツンデレって言葉はあるんじゃねえぞ!」 「勘違いするではない。 儂は別に都合の良い解釈をしているわけじゃない。 お前様の真意を汲み取ってやっているだけなのだからの」 「それもツンデレじゃねえ!」 なんでこいつは自分をツンデレキャラで売り込もうとしてるんだ。 しかも間違いだらけの上にちっとも萌えない! 萌えないツンデレなんてただの面倒くさい奴だ! なんて、そんないつもの調子で面白会話に戻ってしまったが、ここは廃墟である。しかも日が暮れて静まり返っている。 そんな所でいつもの調子で突っ込みを入れれば当然その声は廃墟の中に響き渡る。そうなれば必然この人が寄り付かないはずの廃墟の中にいる何者かにも聞こえてしまう事を失念していた。 「ヒホ!? だれだホ!?」 歌は止み、同時にそれが聞こえてきたと思われる教室から放たれた誰何の声は予想以上に若い、と言うよりもはっきりと幼い子供の声だった。 それにしても『ホ』ってなんだ? いや、そんな事よりもこんな廃墟にこの時間に子供がいるのか? 「誰だか知らないけど出てくるホ! 隠れていると酷いホー!」 「そうだホー! 今夜はいくらでもイタズラして良いヒーだホー。 早くしないと酷いイタズラしてお菓子にしてしまうホー」 先に聞こえた甲高い子供の声に続いて、こんどはちょっとダミ声が聞こえてくる。こちらも子供には変わりないのだろうけど、前者よりも大人びた、無邪気さが薄れて悪意が明確になった感じの声だ。例えていうならお子様向けのアニメとかに出てくる悪役の声とでも言えば良いだろうか。 なんだろう、例えって言うかそのまんまな気がするのは。 「分かったよ、今出て行く」 「なんじゃ、行くのか?」 「仕方ないだろ。こんな時間にこんな所に子供を放って置くわけにも行かないし」 「儂は住み着いておったぞ」 「お前は子供じゃないだろうが」 見た目はロリータだが中身はロートルだろう、とさすがに口には出さない。意外とこの手の話題に対してナーバスになっている事はあの陰陽師と式神とのバトルのときに了解済みだ。ここで忍の機嫌を損ねて良い事なんかない。やっぱり見た目は子供の忍が居たほうが子供の相手をする際に変に警戒される可能性は低くなるはずだ。 さて、どうやって説得して家に帰したものか。 僕はそんな暢気な事を考えながら、さっきから引っ切り無しに挑発とも罵倒とも取れる言動が聞こえてきている教室の扉を開いた。 そして、そこでようやく僕は本当に暢気な考えでいた事を思い知らされる。 ようやく、忍の物言いが引っ掛かっていた意味も理解した。 しかし、それはどう考えても今更で手遅れだろう。正しく後の祭りだ。 教室の中には雪ダルマとカボチャが待ち構えていた。 4 かつて、ここには浮浪者が一人住んでいた。アロハシャツを着た小汚いオッサンだった。 名前は忍野メメ。僕が抱え込んでしまった問題の解決に手を貸してくれた恩人である。 僕だけではない。他にも僕の周りだけでも結構な数の人間が彼によって助けられた。 忍野自身は「助けられた」なんて言い方を嫌うだろう。あいつの流儀に合わせるのなら「手を貸してもらった」と言うべきなのだろう。 だけれど、僕としても恩人でなければ出来れば関わり合いたくない人間だったが、それでも いや、例え日が出ていようともここはそういう場所なのだ。 ここにはかつて忍野メメが張った結界により、場所を知っている者でないと辿りつけないようになっていた。そしてその結果は忍野がこの街から去った時に既に無くなっている。 しかし、そもそもここを選んだ理由は そんな所に真っ当な人間が来るはずが無いと思ったからこそ、様子を見に来たというのに、その事を失念してただの子供が入り込んだだけだなんて、僕は本当に馬鹿なのか。子供の声がしたってそれが子供である確証にはならない。そんな事、僕はとっくに知っていたはずだ。 いや、しかしそれにしたって、なんだこれ? この目の前のも怪異なのか? 手足の生えた雪ダルマと魔女みたいな帽子とマントを羽織って浮かぶカボチャ。 怪異に行き遭うには相応の理由がある。これは絶対的なルールのようなものだが、果たしてこのような怪異に出会うだけの理由が僕にあるのだろうか。カボチャの方はハロウィンという日には相応しい姿の怪異と言えなくも無いが、そもそもカボチャにせよ雪ダルマにせよ、僕が知っている怪異とは何か違うような気がする。 いや、僕が知っている怪異なんていうのは極一部だし、それが全ての怪異に適応されるわけじゃないって言うのは、散々忍野の奴に指摘されてきたことではあるが、それにしたって明らかに違うモノだろ、コレ。 「ヒホ? 黙り込んでどうしたホ?」 「ヒホー! さてはオイラたちに恐れをなして喋れないホー」 「そうなのかホ? ヒホー! 見た目は冴えない奴だけど中々見る目がある奴だホー!」 「確かに言葉も無いけど……」 突っ込みとしても語り部としても致命的である。 存在意義が揺るがされると言う意味では確かに恐怖だ。 「って、いやいや、そうじゃなくて! 何なんだ、お前ら」 「ヒホ? オイラたちを知らないのかホ?」 「やっぱり見た目どおり冴えない奴だホー! 友達の言葉を借りれば、ダメダメだね、チミ。 だホー」 ああ、なんか罵倒されるのが懐かしいなあ。ガハラさんは更正してからというもの、あの毒舌を振るうことがなくなったし、八九寺は僕の悪口は言うけど、まあそれはお互いのセンスを試す遊びだから罵倒とは違うからなあ。もっとも、かつてガハラさんが振るった言葉の刃は罵倒なんていう生易しいレベルではなかったわけだけど。 そして、この目の前の雪ダルマとカボチャの言動も罵倒と言うには拙い。ガハラさんのような心が致死になるような毒もなければ、八九寺のような鋭いセンスがあるわけではない。本当にその言動は子供のソレだ。 っていうか、僕は怪異相手に何で罵倒を懐かしんでるんだ? 僕にはM属性なんてないはずなのに。それどころか、あらゆる受け属性は無いと思っていたのに! 「おい、お前様よ。 馬鹿なことを考えている場合ではないだろ。 こやつらをどうするのじゃ?」 「どうするたって……」 どうしよう? もしもこの間の影縫さんのように、僕の身近な怪異を滅ぼしに来た専門家だとしたら早々に、出来れば忍野の奴の言い方で言えば平和主義な方法でお帰りを願いたくて来たのだが、まさか怪異そのものだとは思わなかった。関わらなくても良いことにまでか関わろうとすると良く言われる僕だが、今回はとんだ藪蛇だった。突いたのは藪じゃないし出てきたのも蛇ではないが。 しかし、本当にどうしようか。怪異にはそれ相応の理由があり、怪異を還すにはそれを把握した上で手順を踏まなきゃいけないんだろうけど、この目の前の雪ダルマとカボチャの理由って何だ? 「ところで、オマエたちは何でこんな所に来たホ?」 「いや、それはこっちが聞きたいって言うか……何でここに居るんだ? それにさっきの質問にも答えてもらってない。 一体何者なんだ?」 「そう言えばそうだったホー。 オイラは妖精ジャックフロストだホー! 見ての通り愛らしくも恐ろしいマスコットキャラだホー」 「オイラはそのブラザー、ジャックランタンだホー。 何でいるのかと言われれば、見ての通りハロウィンと言ったらオイラの出番だからだホー! 呼ばれて飛び出てヒホホのホー!」 確かにカボチャの怪異――ジャックランタンの見た目はハロウィンというイベントにこれ以上ないほど嵌っている。っていことはこのジャックランタンはハロウィンに関係している怪異なのか? でも、だとしても何のために現れたんだ。 確かに地域や時期って言うのは怪異にとって重要なファクターだけど、そこには人の意思が関わっているはずなんだ。 ん? そう言えば今呼ばれたとかって言ってたか。今までの経験から言って、その怪異に出会ったものが呼び寄せた可能性が高いんだけど、そうなるとやっぱり僕だよなあ。でも、僕は家に帰ろうとしていただけのはずなのに、別に怪異を呼び寄せるような原因はなかったと思うけど。 いや、羽川のことを考えていたが、それなのか? 羽川と離れたくないが邪魔をしたくない、なんて聞こえの良いことを言った所で、それはつまり羽川の邪魔をしたくないが離れたくないと言っているのと変わりない。僕のその自己中心的な考えとそれに対する自己嫌悪による葛藤と矛盾が呼び寄せたとでも言うのだろうか。いつまで経っても独り立ち出来ない子供のように僕は羽川の足枷になって――。 ならば、尚のこと早々にお引取り願わなければならない。僕の弱さで羽川の足を引っ張るなんてごめんだ。そんな恩を仇で返すようなことをしてしまっては、僕はこの先吸血鬼体質なんかよりも重いモノを背負っていかなければならない。 羽川に行ってほしくないは確かに本心だが、羽川の邪魔をしたくないのも揺ぎ無い決心なんだ。 「勝手に呼び出しておいてこんな事を言うのは本当に勝手に勝手を重ねるようだけど、すぐに去ってくれないか。 お前たちの存在はそりゃあ僕が望んだ事かも知れないけど、それでも僕にとっても僕の大事な奴のためにもありがたくない存在なんだよ」 そうだ、これ以上僕の不始末であいつに迷惑は掛けられない。羽川に類が及ぶような事が起きる前に、この怪異はどうにかしなければならない。羽川がこの怪異の存在を、呼び寄せた原因である僕の心情を知る前に解決しなければ駄目だ。 もちろん、羽川が知ったところで、そもそも僕のような薄くて弱い奴の心情なんてとっくにお見通しだろうけど、それでもこんな目に見える形で現れたのならば、旅をやめる事は無くても引っ掛かりになる恐れもある。あいつは自分の意思を簡単に曲げるような奴じゃないが、それでも良い奴なんだ。良い奴過ぎるほどに。だから、それはストレスになる。 羽川にストレスは厳禁だ。 一度ならず二度までも、どころか三度までも僕が原因のストレスで猫に魅せられたら、本当に羽川にとって僕の存在は足枷以外の何者でもなくなってしまう。仏の顔は三度までなんて、羽川は三度目も許すだろうけど、僕が許せない。 だから早急に、出来れば今すぐこの場でこの怪異とは決着をつけなければならない。 平和主義による解決なんてものに拘る余裕も無く、場合によっては忍の力を借りての実力行使も厭わない決意を固める僕に、しかしジャック何某によってその決意は霧散させられた。完全に不意打ちで気勢を殺ぎ落とされた。 「ヒホ? 何を言っているホ? オイラ達を呼んだのオマエなんかじゃないホー」 「……………………え?」 「オマエも見たところ真っホーな人間じゃないみたいだホー。 だけどサマナーでもないオマエがオイラ達を呼べるわけがないホー。 だからオマエに帰れなんて言われても困るホー」 いや、困るのはこっちなんだけど。 え? あれ? 違うの? 僕が呼び寄せたわけじゃないって、それじゃあ今さっきの僕の葛藤とか自己嫌悪とかは全く的外れで、固めた決意は無意味だって事? うわっ、すげえ恥ずかしいんですけど。 さっきとはまるで違う自己嫌悪が凄い勢いで僕の心を苛んでいくぞ。 「ヒホ? どうしたホ? いきなり頭を抱えて蹲って、何をしてるホ?」 「おかしな奴だホー。 関わらないほうが良いかもしれないホ」 怪異に引かれた。 この僅かな間に久しぶりに精神的にヘコまされた。耐性が薄れてきていたのでダメージもでかい。 「のう、もう放って帰っても良いのではないか? これ以上関わるような理由もあるまい」 「僕も正直な気持ち、今すぐにでも帰りたいけど、もう十分に関わっちゃったしなあ」 放っておいても害のなさそうな怪異ならば放っておくのが正答なのは僕も分かってはいるけど、そもそも害がないものなのかどうかが未だに分からない。 うわぁ、今まで耳にタコが出来るくらいに人から受けてきた忠告だったけど、コレほどまでに痛感したのは始めてかもしれない。やっぱり、おいそれと首を突っ込むべきではないよなあ。 「オイラ達は質問に答えんだから、次はそっちの番だホー。 なんでこんな所に来たホー?」 「あー、うん。 えっと、外から明かり――多分そっちのランタンの明かりが見えたから、こんな廃ビルにそんなものが見えるのはおかしいと思って見に来たんだけど……そっちこそなんで此処に?」 怪異には出現するだけの相応の理由がそこにはある。 今更無かった事にして立ち去るのが不可能な以上、この目の前の怪異に対してなんらかの対処をしなくちゃならない。そうでなくてもどういうスタンスで向き合うべきかは決めておくべきだろう。切っ掛けは成り行き気とは言え、その後の対応まで成り行き任せでは碌な事にならない。経験者は語る、だ。 怪異の情報を得る話の流れに向こうから持って行ってくれたのは幸いだ。どれだけの自覚をこの怪異が持っているのかは不明だが、少なくとも誰か、或いは何かに呼び出されたと言う自覚はあるらしい。そしてそれは怪異と相対する上で大きなウェイトを占めている。それを聞き出せるだけでその後の対応が大分楽になるのだが。 「ヒホ? 何でってそれはさっき言ったホ。 もちろん今日がハロウィンだからだホ」 「ハロウィンにオイラほど相応しい悪魔は居ないんだホー! だからオイラの登場っとなったホー」 「悪魔? さっきは妖精って言ってなかったか」 「ヒホ。 オマエたち人間が不思議なモノとして扱っているモノを全部まとめて『悪魔』だホ」 んん、鬼や蟹、蝸牛に猿に蛇に、そして猫。それらを総じて『怪異』と呼ぶのと同じって事か? ううん、考えてみれば『怪異』って呼び方は忍野の受け入れであって、これが万国万人に通用する標準用語って訳じゃねえんだよな。 しかしそれらを総じて『悪魔』とは随分な分類の仕方だ。蟹みたいな神様とかはどうするんだ? 神様もまとめて『悪魔』扱いになるのだろうか。 「でも、ハロウィンだからってそれだけで出てきたわけじゃないだろ? 他にも何か要因があるんじゃないのか。 大体なんで場所が此処なんだ」 「チョイ待つホ。 そんないっぺんに聞かれても混乱するホ。 交渉の基本は一問一答だホー。 どうやらオマエは交渉は初心者のようだホ。 ちょっと意外だったホ。 仲魔を連れているからてっきり交渉の心得はあるのかと思ったホー」 ちょっと待って欲しいのは僕のほうだった。 理解が追いつかない。 混乱魔法でもかけられたように頭の中がグチャグチャだ。 交渉って、忍野がよく言ってるあれか? 力ずくではなく、平和的解決方法。 バランサーとしての忍野の常套手段。 それにしてもさすがに忍がただの金髪ロリ娘でないことは見抜いたか。でも、仲間扱いって言うのは意外だ。怪異はそんなお友達付き合いを好まないと言うのは猫と、そして言外に忍もまたそういう扱いを受ける事を拒否している。 怪異は人間と違うからこその怪異なのだ。 それを同列に扱うような彼らの発言は怪異としてのアイデンティティの否定に繋がるのではないのか。 それとも友達ではなく、仲間ならば良いとでも言うのだろうか。馴れ馴れしい付き合いではない信頼関係。 陰陽師と式神のうような関係。 僕と忍の関係はそれとも違うわけだけど。 いや、そもそも『ナカマ』という言葉のニュアンスが違うのか? 「やれやれ仕方ないホ」 と、オーバーなリアクションをするあたりはさすが外国の怪異だ。それこそ偏見もいいところな気もするが。 「そんな初心者なオマエにオイラたちが交渉の基礎を叩き込んでやるホー」 「今からはオイラたちのことを教官もしくは軍曹と呼ぶんだホー。 妖精教官、妖精軍曹だホー」 「随分とファンシーだな」 実にファンタジーだ。 いや、そんなことよりも何で怪異が怪異との交渉術を人間に教授しようとしてるんだ。 そもそも怪異が交渉術をなんで心得てるんだ!? やっぱりこの怪異は今まで僕が関わってきた怪異とはまるで違う。一番近いので言えば、八九寺か。つまりは忍野もびっくりの規格外。 「おい、お前様よ。 もうこやつら放っておいても構わんじゃろ。 さっさと帰ってドーナッツを食そうではないか」 「だから、あれはお前の分じゃねえって言ってるだろ」 規格外の怪異なんて今更なのかもしれない。それにしても抜け目ないというか、諦めの悪い奴だ。もしかしたら本当に元怪異の王としての欲しいと望んだ物を絶対に手に入れようという矜持なのか。 だとしたら、本当に怪異というのは僕の理解の外だ。 だが、忍の言葉に予想外に反応したのは目の前の怪異二体だった。 「ヒホ? ドーナッツなんて持ってるのかホ? だったらまずはそれを寄越すホ」 「なんじゃと!?」 さらに苛烈に反応を返す忍。 超反応だ。 混ぜるな危険! 「お前様、今すぐ血を寄越せ。 こやつらを使って冷えたパンプキンスープを拵えてやろう!」 「ヒホ!? 冷たいパンプキンスープでお茶を濁そうとしても駄目だホ! オイラたちはドーナッツを欲しているんだホー! 相手が欲しがっているものは素直に渡す、それが交渉の基本だホ!」 「しかもオイラたちを使ってというのにデンジャラスなものを感じるホ! 威圧はよっぽど力に差が無い限り有効じゃないホ! じゃないとオイラたちやる気だホ!」 「有象無象の雑魚妖精如きが吼えてくれるわ! よかろう、ならばドーナッツを持つに真に相応しいものが何者であるか、しっかりと刻んでやろうぞ!」 「だからお前のじゃねえよ」 お互いにヒートアップして(雪ダルマの方は溶けないのだろうか?)臨戦態勢に入っている間で取り残されたような疎外感を覚えながらも、突っ込みの役割をきちんと果たす僕は結構律儀な奴だと思う。 ここに来ようとしたのは僕で、目の前の怪異に話を聞こうとしたのも僕のはずなのにいつの間にか空気扱いだ。二人の男が一人の女性を取り合っている間で、当の女性が「やめて! 私のために争わないで!」と言っているのも割と似たようなものなのかもしれない。 当事者である事を忘れられないように、せめてもの精一杯の自己主張。 まあ、僕の場合は本当に事を構えることになったら、忍に血を与えなければならない以上、いつまでも蚊帳の外と言うわけにもいかないのだが。 なんで平和的交渉からいきなりバトルモードに移行してんだよ。 お前ら何か良い事でもあったのか? 「ええい、何をしておるか! 早くその首筋を差し出すんじゃ」 「落ち着け、忍。 僕はもうバトル展開はご免なんだ。 相手から交渉の場を与えてくれてるのにこっちから蹴ってどうするんだよ。 平和主義に行こうぜ」 「何を悠長な事を言うておるか! 時には主義主張、信念を曲げてでも守り通さねばならぬものがあるのではないのか!?」 「だからそれはドーナッツじゃねえよ」 駄目だ。やっぱり怪異の価値観は僕には分からない。 いや、怪異だけじゃなくて怪異に関わった人間もズレた価値観を所有している気がする。ヴァルハラコンビは言うに及ばず、あの羽川や千石ですら独特の、あるいは毒々の価値観を所持している。僕の妹たちであるファイヤーシスターズに関しては端から論外だ。専門家の忍野や貝木、影縫いさんに至っては極まっている。こうなってくると一般人の僕の方がおかしいのではないかと錯覚してしまう。どんな時でも常識を捨てきれないのは突っ込み役の辛いところだ。 なんて、僕が自分の役割の重さに嘆いていると、ジャックと名乗った怪異たちが感銘の叫びを上げた。 当然と言うか残念と言うか、それは僕の役割の重さに対してではなく、よりにもよって忍の言葉に対してだった。 「ヒホ! その通りだホ! ドーナッツがあれば価値観の違いなんて吹き飛ぶホー!」 「魔貨も全てはお菓子を手に入れるための手段でしかないホー!」 「おお! おぬしら分かっておるではないか!」 そして何故お前まで十年来の友に出会ったような笑みを浮かべてるんだ。 もしかして、僕が知らないだけで怪異関係にドーナッツとはとんでもない万能アイテムなのか? トップリーダー推奨なのか? 「それに引き換え、そっちの人間は駄目駄目ホ」 「うむ、我が主様は駄目駄目じゃ」 「意気投合してんじゃねえよ」 さっきまで一触即発状態じゃねえか。 仲裁に入ったのは僕なんだぞ。 なんでいつの間にか僕が除け者になってるんだよ。 「オイラたちに新たなブラザーが出来たお祝いだホー! 今夜はドーナッツパーティーだホ!」 「ヒホー! お菓子を貰えればオイラも役割を果たせるんだホ」 「ふむ、本来はあれは儂のものだが特別にぬしらにも分け与えてやろうぞ」 「いや、だからこれはお前のじゃ――」 僕の何度目ともなる訂正も、今度ばかりは完全に意味を為さなかった。 いつのまにやら状況は二対二から三対一に変わっているのだ。 「交渉レッスンの続きだホ。 暴言を図れるのと同じく、要求したものを渡されなくてもオイラたちは暴れだしちゃうんだホー」 「まさにトリックオアトリートだホ」 「お前様も今度こそ観念するんじゃな」 僕は民主主義に則り――観念した。 数の暴力に屈したのだった。 薄っ! 弱っ! 5 今回のオチ。結局、アノ後ドーナッツは強奪されて怪異たちの胃袋(果たしてそんなものがあるのかは不明だが)へと消えていった。 ドーナッツと忍との交流を満喫したジャックは、 「それじゃあお菓子も貰ったから帰るホ」 「オマエたちの事は忘れないホー。 ではさらばだホー」 と、勝手に満足して本当に去って行った。 去り際に光りを放つ奇妙な石を残して。 なんのために出てきたのか良く分からない怪異たちだった。もしかしたら、本当に僕らの世界の怪異とは全く別物だったのではないかと、そんな馬鹿げた考えすら抱いてしまった。 忍も満足したのか、僕の影に戻ってしまい、僕は一人廃ビルに取り残される形になった。軽く泣きそうになったことが忍に伝わっていない事を切実に祈りたい。 既に中身を失いただの空箱にクラスダウンした物体を、まさか放置するわけにも家に持ち帰るわけにも行かず、途中のゴミ箱に捨てて帰った。そう言えば、忍と出会ったときもゴミ箱に叩き込むように捨てた事があったな。そのときのはエロ本だったわけだけど。 途中、瀕死の吸血鬼やそれを追う怪異狩り、色ボケ猫に出会う事も無く、無事に家にたどりつく事が出来たのだが、帰ってからが無事ではすまなかった。 お菓子を用意し忘れた僕は再び妹たちに悪戯を受ける事になった。 内容は屈辱的なので割愛。最近、火憐の奴が神原と交流を深めているというのは僕にとって決して喜ばしいことではない事だけは確かだった。 これだけの事があれば、疲れ果ててしまいそうなものだったのだが、不思議と疲労は残らなかった。 その代わり、怪異からもらった石が光を失っていた。 寝言 はい、お久しぶりです。そして今更のハロウィンSSでした。今回は女神転生の彼らとのクロスオーバーとなったわけですが、読んで分かるとおりほとんど絡みがなかったという、クロスものにあるまじき結果に……。 |