001

 刀とは斬れねば意味が無い。
 時折、その刃の美しさから芸術品としての価値を見出されるが、そんなものは刀本来の価値とは無関係だ。
 刀の価値とはその切れ味にこそある。美しさなど、結果的に付いてくる付属価値に過ぎない。
 逆説。
 斬れれば、それだけで十分価値がある。
 斬れさえすれば、刀としては美しい。
 それがどれだけ無骨で、歪んでいても、例え錆に塗れていようとも。
「拙者にときめいてもらうでござるよ」
 光が閃いた。
 いや、実際にはそんな光すらも本来は見えてはいない。
 それでも、見たのだ。見えるはずのない一閃を。
 それはあまりにも洗礼され、透き通るような純粋な光。
 美しい、と思った。
 それが、その男の最後の思考だった。



 この国において剣士とは強者を意味る言葉だ。
 かつての戦乱でも、そして闇に葬られた先の大乱においても、その世間的な善し悪しの判断は置いておくとして、大いに力をふるい武功を立ててきた彼らは、人々の間で力の象徴として扱われてきた。そして、彼ら剣士たち自身、己こそ最強たらんと、自負し、自称し、自認し、自惚れてきた。
 むろん、そうあるべく、腕を磨き、刀を研ぎ、そして斬ってきた。
 それでも、彼らのそれはあくまで、自負であり、自称であり、自認であり、自惚れでしかなかった。
 何故ならば、すでにいるからだ。
 自負ではなく、自称でなく、自認でなく、自惚れではない、最強の剣士が。
 その者がいる限りは、どれほどに声高に最強を名乗ろうとも、どれほどに腕前を磨こうとも、誰も最強とは認めない。
 日本最強の剣士にして、現在は幕府の以降に逆らった堕剣士。
 最強の称号と、大罪人を打とうという、その両方の刺客から幾度と無く襲撃を受けながらも、その全てを斬り捨てて来た。
 かの者の名は、錆白兵。
 現時点において、殆どの者が最強と認めている剣士である。



「錆白兵とお見受けする」
 今日で何度目になるのか、数えるのも面倒な誰何の声に白兵は歩みを止める。
 無視してしまっても良かったのだが、どうせ急ぐ目的も無かったうえ、この手の輩の存在は、白兵にとって欝陶しい存在であると同時に、都合の良い存在でもあったのだ。
「いかにも、拙者が錆白兵でござる」
 華奢で小柄な男だった。
 その小柄な体型と白い長髪、男だと知っていなければ女と見間違ってしまう者もいるだろう。
 だが、この男こそ全ての剣士が目指す、最強の称号で呼ばれる剣士。
 錆白兵だ。
「それで、お主の目的は拙者の命か? それとも――」
 腰に差した一振りの日本刀を相手へと魅せつけて問う。
「この刀でござるか?」
 雪のように白い紋様が描かれた鞘だった。
 素人目でも、それが価値のある物だと知れる一品だった。
 そして、素人ではない、知る者が見れば、その刀は特別な意味を持っている。
「知れたことを。 その両方を手にし、最強の剣士の座を頂く!」
 宣戦布告と同時に、男は腰の刀を抜き放つ。
 最強の座を得ようというだけあって、男の動きは修練されたものだった。
 素人ならば、何が起きたのかも分からぬうちに斬られていただろう。
 並の手並みならば、対応する間もなく斬り捨てられていただろう。
 だが――。
「お主には無理でござる」
相手は錆白兵。
「拙者の命を取ることも」
 烈破の気合と共に斬りつける男に対して、緩慢とも言える動きで白兵は腰の刀に手をかける。
「この刀を扱うことも出来ぬでござる」
 男の刀が振り下ろされる。
 素人ならば目にすることも出来なかっただろう。
 並の剣士ならば目の前に迫る死に絶望しただろう。
 だが――。
「故にお主は最強にはなれぬ」
 相手は最強の剣士!
「拙者にときめいてもらうでござるよ」
 倒れ伏したのは男だった。
 斬られた断面は、初めからそうであったようになめらかで、ともすればそれが斬殺死体だと理解した上でも、思わず見惚れてしまうほどに見事な切り口だった。
「美しい――……」
 それが男の最後の言葉だった。
 意識した言葉ではあるまい。自然と漏れでた言葉だろう。
 だからこそ、その言葉には虚飾がない。
「ひどいなー。 こんな腕で白兵様に挑もうなんて。 まあ白兵様を狙う愚か者の割に、最後くらいは見る目があったみたいですね」
 そんな、死人に鞭打つようなことを言いながら現れた者がいた。
 小柄な男だった。いや、男というよりも童子だった。小柄なのも当然だろう。
 おかしいのは体格ではなく、斬殺死体を前にしても平然として、あまつさえ死人に対して吐き捨てる態度の方だろう。
「なんの用でござるか」
「ひどいなー。 俺は白兵様の一番弟子じゃないですか。 そばにいるのが普通じゃないですか」
「拙者は弟子などとった覚えはござらん」
 言葉でも容赦なく斬り捨てる白兵に、しかし童子はそれに対しても、にこやかにひどいなー、と言うだけだった。
 慣れている、のかもしれない。
 だが、先程の対応を考えると、別の可能性を考えてしまう。
 この童子は感情が欠落しているのではないのかと。
「それで? まさか本当に用もないのに拙者の前に現れたでござるか?」
 だが白兵もまた、感情の欠落した、硝子細工の目で、無機質な声で、童子へと再度訊ねる。
 彼自身もまた、最強の剣士という称号と引換に、感情を失ったのか、それとも感情が欠落したような人間だからこそ、最強の剣士などというものになれたのか。
「それじゃあいけませんか?」
「構わぬでござる。 まだこの刀になれるためには、斬りたりないくらいでござるからな」
 そう言って、男を一刀のもとに切り捨てた刀を童子へと向ける。
 その言葉に、ようやく童子に笑顔以外の表情が浮かぶ。
 しかし、それは刀を突きつけられたことへの恐怖ではなく、驚愕だった。
「白兵様でもまだ慣れない刀なんてあるんですか!?」
 身を乗り出して問いかける。もちろんそんな事をすれば、眼前に突きつけられた刀へと踏み込むことになる。そんな事などひどく些細なコトだと、童子は目の前にある刀と、それを持つ白兵とを忙しなく交互に見返す。
 奇妙な刀だった。
 綺麗な刀だった。
 薄い、刀の向こう側すら透けて見えるほどに薄い刀身。
 刀身に入り込んだ光が、屈折し、反射し、通過して放つ輝きは幻想的美しさを魅せていた。
「これがあの伝説の刀鍛冶、四季崎記紀の完成形変体刀――薄刀『針』ですか」
 特性は類まれぬ軽さと美しさ、そして脆さ。
「でも、それって刀としては欠陥品も良いところですよね、本来なら」
 受ければ砕け、振れば割れる。
 そんなモノが刀としての価値があるわけがない。刀の価値とは斬れること。千本もの刀を打ちながら、ただ一本の例外もなく、その価値観を込められた刀を打った四季崎記紀の刀の中で、役割が満足に果たせないこの刀は、本来ならば欠陥品の烙印を押されても仕方ない一振りだ。
 本来ならば、だが。
「刀に欠陥などござらん。 あるとしたら、それは扱うものの方こそにあるでござる」
「はは、そうかもしれませんね。 白兵様から見たら、この世界は欠陥製品だらけですか」
 ケラケラと愉快そうに笑う童子。
 それゆえに彼は見逃した。
 彼以上に感情が欠落している白兵の顔に浮かんだ歪みを。
 それは憤りと自嘲だった。
 今まで冷徹な刃のような表情に浮かんだ染みに、しかしその意味を訊ねる者はいなかった。
「それで、まさか本当に用がないわけではあるまい?」
「ああ、はい。 ちゃんと白兵様に有益な情報を持ってきました」
 結局、自分が敬愛する相手に浮かんだ染みに気づくことなく、童子は自らの手土産を披露する。童子そのものの無邪気さで。
「例の幕府の犬が、三途神社をあとにしました。 どうやら三本目の完成形変体刀の収集に成功したようです」
「虚刀流が?」
 今度こそ、ハッキリと染みが浮かび上がる。
 苛立ちと、憎悪。
 さすがに、今回は自称弟子の童子も白兵の顔に浮かんだ染みに気づき、今度こそ恐怖を含んだ驚愕を覚えた。
 だが、それゆえに、彼は気付かなかった。
 そんな表面上に浮き出た染みなど、取るに足りないほどの激情が白兵の中に渦巻いていることに。
 ザワザワと、虫が這うような不愉快な感情が。
 ザラザラと、錆が浮き出るような不快な感情が。
「お主に頼みがあるでござる」
「頼み!? 白兵様が私にですか!?」
「嫌なら構わぬ、他のものに頼むとするでござる」
「いえいえ! 嫌なんてことがあるわけないじゃないですか!」
 頼みごとをされる。
 その望外の喜びに、先程まで心を覆っていた不安は霧散した。
 この辺は非常に子供らしい。
 子供らしい純朴さと、迂闊さだ。
 白兵の硝子玉のような瞳に浮かぶ不純物。
 外部から付いた傷や汚れではない、内から滲み出した錆のような感情。
「これを、先程から我々を監視している幕府のものに渡してきてもらいたいでござる」
 そう言って、懐から取り出したのは一つの手紙。
 その書面に用件を間違うことのない、至極単純にして簡潔明瞭に記されていた。
 『果たし状』と。
「これをですか? あんな監視に?」
「相手はもちろん虚刀流でござる。 奴が持つ変体刀を掛けての決闘を申し込むでござる」
 こちらは一本、あちらは三本。
 普通に考えたら、釣り合いの行かない交渉だが、それでもあの白髪の奇策士が求めるものが、四季崎記紀の完成形変体刀十二本全ての蒐集である以上、十分に交渉の余地がある。というよりも、向こうとしてはこの挑戦に応じざるをえない。奇策士としても蒐集対象以上に、裏切った白兵を放っておくなど出来るはずがない。
「だから、向こうは必ず乗ってくるでしょうけど……」
 童子はただただ不思議そうに問う。
「白兵様がわざわざ相手にすることはないのではないですか?」
 いくら最強の剣士とはいえ、今や幕府を裏切った堕剣士。
 わざわざ幕府の人間との接触をこちらからもつ必要はないはずだ。
 四季崎記紀の変体刀にしても、白兵自身が扱うのは薄刀『針』一本で十分のはずなのに。
「余計な詮索は不要でござる」
「まあ、やれというのならばしますけどね」
 なんの説明もないままに、童子はあっさりと頷いて、白兵に背を向けて去っていく。
 納得したわけではなるまい。ただ、考えることをやめただけだ。
 錆白兵の強さに挑むものが多いのと同様に、その強さに心酔して盲目的に従う輩も多い。あの童子もそんな有象無象の中の一人にしか過ぎない。あそこまで幼い者は他にいないのが特徴だが、若いほうが強さに対する憧憬が強いゆえに一途で盲目的。
 白兵にとって、弟子など取る気もなく、周りを彷徨かれても煩わしいだけだが、それでもそれ以上に煩わしい雑事を肩代わりしてくれるので、利用させてもらっている。
 別に助かっていると思うことはない。
 彼らが勝手に頼り、勝手にやっているだけなのだから。
 だが、錆のように感情が浮き出て、魔が差すこともある。
「おい、童子わっぱ
 気がつけば、童子の背中に声をかけていた。
「剣法とは教わるものではなく、砥ぐものでござる」
「ひどいなー。 でも、そうなんでしょうね。 これでも一応、修練はしてるんですけどね」
「ならば、後でどの程度まで仕上がっているのか見せてもらうでござる」
「はぇ?」
 その予期せぬ言葉に、童子は口から間抜けな音を漏らす。
 今まで浮かべていた笑顔などとは比べものにならないくらい、童子らしい表情だった。
「なんだ、不服でござるか?」
「い、いえ! いえいえいえいえ! とても嬉しいです!」
 首がもげるのではないかという勢いで首を横に振り、首が外れるのではないかという勢いで首を縦に振る。
 それなりに長い付き合いの白兵も初めて見る激しさだった。
「ならば、さっさと行って用を片付けてくるでござる。 拙者の気が変わるとも限らぬでござる」
「は、はい!」
 今度こそ本当に立ち去っていく童子の背中を見ながら、なぜ自分があのような事を言ったのか、白兵は自問する。
 虚刀流との戦いが彼の心の中をかき乱しているのは確かだ。
 虚刀流との戦いは、自分が錆白兵である以上、決して避けては通れぬ戦いである。己が己であるために、己の価値を証明するために、なんとしてでも虚刀流と戦い、打ち破らなければならない。
 だが、その後はどうする?
 己の価値を証明した後、錆だらけの刀である自分はどうすれば良いのか?
 そんな疑問が僅かばかりに芽生えたのかもしれない。そして先程の言葉が出たのであろう。
「下らぬでござる」
 所詮刀は刀。
 己の後など気にするべきではない。
 だが、それでも、もしも虚刀流との戦いの後に生き延びていたら、また諸国を歩くのも良いかもしれない。その間の暇つぶしに誰ぞの剣の扱いを見ても良いのかもしれない。
 そう、思ったのだ。
 魔が差したように。
 錆が浮き出たように。



 なんて、誰にも頼まれもしないのに、わざわざ自分から死亡フラグを錆白兵が立てたところで、このお話はおしまいです。
 結局のところ、彼は虚刀流との戦いに敗れ、己の価値を証明することも叶わず、錆だらけの失敗作として、朽ちて折れて砕けてしまったわけです。
 ましてや、その戦いは決して詳しく語られることもなく、虚刀流の姉である鑢七実の天才性と最強を際立たさせるための比較対象のような扱いを受けてしまうわけです。
 が、それでも多分、彼は後悔も屈辱もしながら満足はしたのではなでしょうか。
 何故なら、彼は少なくとも剣士として戦って死んだのですから。



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